「良い子」からの脱却、過去との戦い

千葉県、30代、女



私は小さい頃に母親に虐待されていた。3歳の時に両親は離婚し、母は私を1人で育てた。
母は、自分の機嫌が悪い時には私をストレスのはけ口と言わんばかりに罵詈雑言を浴びせた。
父に似ていることで「あいつ(父)にそっくりだ、顔も見たくない」「お前なんか消えちまえ」「お前なんか産まなきゃよかった」「堕ろしたかったのに(中絶できる週数を過ぎていた)できなかった」などなど、数え切れないほどの罵詈雑言を浴びながら育った。
暴力を振るわれた記憶はあまりないが、小さい頃の記憶といえば母の浴びせる暴言や膝を抱えて泣いている自分しか出てこない。

ある時、話せなくなった。声が思うように出ない。小学校の給食も食べられなくなった。
話せなくなったら、母は私を「みみつんぼ」「口なし」などと罵り始めた。
いつもいつも母の顔色を伺って、布団の中で泣いていた。明日は怒られないようにしよう、が日課だった。
いつか捨てられる、殺される、そんな不安があって小さい頃は常に眠りが浅く、悪夢ばかり見ていた。母のいびきが聞こえ始めるまで、じっと耳を傾けて、完全に寝入ったと思ったところでやっと眠れた。

喘息の発作が出ても母は笑顔で私を見つめて何回咳き込んでいるかを数える。
夜に咳き込んだらうるさいと怒鳴られ、ぬいぐるみと共に立たされた。
そんな私だが、17歳と15歳年上の姉がいる。父は私だけ違う。
私は姉にも疎まれていた。

ある時、母と姉が私のことでケンカをしていた。私をどこかに捨ててくる、どこかに預けるといった話だったように思う。5歳か6歳の頃だった。私には母しかいない。捨てられたくない。そう思った私は、必死に幼い頭をフル活用して、母が使っていた安全カミソリで手の甲をザクザクに切った。
私が何かやらかせば、びっくりして捨てるのをやめるんじゃないか、私が痛い思いやつらい思いをすれば満足してくれるんじゃないかと思った。結果的に、「お前みたいなキチガイは鉄格子の付いた病院にぶち込んでやる」としか言われなかった。
その頃から、つらいことがあった時には自分を傷付けるようになった。

母に機嫌よくいて欲しくて、褒められたくて認められたくて、勉強もたくさん頑張って、学生時代は常に良い成績だった。ただ、母は100点以外は褒めてくれなかった。例えば98点を取っても、何で2点間違えたの!といった感じで怒られる。

中学、高校と私は母の干渉を受け続けた。早い門限、どこかに行く時は常に5W1Hの報告をしなければならなかった。そのうち、嘘を付くようになった。
表向きでは私はいつも母にとっての「良い子」だった。大学も国公立大学に進学した。でも、その「良い子」のバランスが崩れかけていた。
大学進学を機会に私は家を出た。

大学1年の冬、母と学費についてケンカになり、電話口でひどく怒鳴られた。パニックになった私は、カミソリで手首を思いきり切った。血しぶきが舞う。床は血の海。涙なのか血なのかわからないけど口の中がしょっぱい。
当時付き合っていた彼氏がたまたま意識朦朧とした私を見つけて、救急車で運ばれた。出血性ショックだった。何が悪かったって、搬送先が自分の実習先である病院の救急救命センターだったこと。気まずい。そして、救命隊から母に連絡が行ってしまったこと。
この自殺未遂をきっかけにして、「良い子」は完全に崩れた。救命隊から連絡が行ったときに母は「育て方を間違えた」と言った。
それ以来、大学に紹介された精神科でカウンセリングを受けるようになったが学生のバイト代では金銭的に厳しく頓挫。その頃から眠剤を飲むようになった。

何とか大学を卒業して、看護師と保健師の資格を取った。倍率の高い、難関といわれるところに就職先が決まり、いわゆる看護師としての「エリート」を進み始めたはずだった。
しかし、職場で年配の看護師に怒られることで母の記憶がフラッシュバックしてしまい、そのうち精神的に病んでしまって休職。転職を繰り返した。自傷行為もずっとやめられなかった。
切るところがなくなってオーバードーズに切り替えたり、そのうち白衣のポケットにたまたま入っていた注射針がきっかけで瀉血をするようになった。自分の血を1日に1リットルほど抜いていた。
ワインをラッパ飲みして、酔いが回りそうな所で瀉血。なんでこんなに自分はできないんだと自分を責めていた。自罰のための自傷行為。
そのうち、職場で倒れた。ヘモグロビンが5台。重度貧血だった。即入院。数年、瀉血をしては重度貧血になって入院、輸血というルーチンを繰り返した。

その中でも心療内科は通い続けていて、「うっかり死なないこと」を目標にしていた。本当に精神科的にも入院寸前だった。でも、当時の私は自分のことなどどうでもよくて、死んでも良いと思っていた。心の根本には、母に認められない自分が許せない、もともと望まれていない子供だった自分に対する諦めのような気持ちがあったのかもしれない。

20代のほぼ全てを、「虐待されていた過去」とひたすらに向き合った。そして、「母との距離」を必死に取ろうともがいていた時期だった。30代に入り、何とか落ち着いてきたところで、今は保育園で看護師として働いている。それでもやはり、「看護師としてバリバリと働けていない自分」が許せていない。
身体の傷も消えることはないし、着れる服も限定的になってしまう。ノースリーブの可愛い服があっても着れない。

母から虐待を受けて育ったことで自己肯定感はかなり低く、どうしても自分を人と比べてしまう。これからは「自分で自分を認めること」を習得しなければいけないと感じている。
過去は消えないし、きちんと向き合ったつもりでいても、つらい過去がひょっこりと顔を出す。生きてる意味なんてあるのかなあなんて思うことも多々ありながらも、今は何となく生きている。
昔ほどではないけれど、やっぱり日々の生活の中で「普通」とは違う感覚だったり「生きづらさ」を感じることは今でも多々ある。
今でも眠剤を飲まずには眠れないし、それでも悪夢を見ることも多く、子供の頃から染み付いてしまったのだろうかとつらく感じている。

望まれて産まれてこれなかったけれど、せめて死ぬときには「産まれてきてよかったなあ」と思えるように生きられたらいいなと日々思っている。

感想1

経験談を送ってくださり、ありがとうございます。
幼少期の育った環境は壮絶だと感じました。自分の欲求を出すまでもなく、罵られ、生まれたことも否定されれば、話せなくなるのは自然なことだと思います。話したい場面でも声が出せないのは、かなり不便で辛いことだと思います。給食が食べられなかったら、体力的にもしんどかったのではないかと想像しました。
母や姉の言った、あなたを「捨てる」という表現は酷いと感じました。あなたは人間であって、モノではないのに。

あなたの「良い子」でいるための頑張りは、母親さんへの思い遣りから来ているのだろうなと思いました。どこまでも良い子を求められるから、どこまでも頑張って応えなきゃいけなかったのだろうと。
でも、本当は「良い子」でなくてもこの世界で生きていけると思うのです。いや、生きていける世界にしなければならないはずだと強く思います。

学校や仕事で社会と接点を持っていたにも関わらず、あなたの思いを聞いて、生きる手助けをしてくれる人に出会えなかったことが悲しいです。でもそれが現実だった。それはもう、私たちの住んでいる今の社会が機能不全になっているということだと思います。
このネットの居場所死にトリで対話をして、どうしたら様々な背景を抱える人たちが繋がって、現実をどうにかすることができるか、共に学び考えていけたらありがたいです。

過去と向き合い、これからのご自身の課題を見つめているところが印象的でした。急に「自分で自分を認める」のは難しいと思うので、少しずつ周囲の人に協力してもらい、自分の何か(作ったものでも、存在でも…)を発信して認めてもらう機会をつくれたらいいのかな、とも思いました。

感想2

幼いころから人の顔色を伺って人に認められるために必死に生きてきた中で「こうあるべき」という意識が高く、だからこそエリートコースを進むべき努力をされてきただろうと思いますし、それが出来てしまう能力があるからこそ今の「バリバリ看護師として働けていない自分」が赦せないのだろうなと感じました。母親の発していた言葉はまさにあなたの言う通り虐待だと感じました。そして重ねてきた自傷の重さが、その頃受けた傷の深さを感じさせられました。

過去と向き合いつつも、今を必死に生きている、そんなあなたをイメージしました(もし違っていたらすみません)普通と違う感覚、生きづらさ、ついて回る過去、そういったものを持ちながらもそれでも向き合い、前に進もうとしているあなたのその生きざまのような、背中のようなものが、とても美しく感じる文章で胸を打たれました。
「産まれてきて良かったなぁ」と思えるような生き方、素敵な視点だと思います。