東京都 田口まゆ さん


はじめまして。

金田由希さんからバトンを頂きました、子どもの頃父を自死で亡くした自死遺族当事者として活動しております。自死遺族への差別偏見の問題を考えるNPO法人セレニティ代表の田口まゆと申します。

今日は、何故私が自死遺族として活動をするようになったかを書きたいと思います。

私の父は今から35年前、父が39歳の時に自死しました。私が13歳の時でした。今現在は東京都在住ですが、もともとは山口県出身。私の住んでいた町はとても小さな町だったので父の自死のことは隠すことが出来ず、あっという間に町中に広まってしまいました。

私が父を亡くした最初に受けた差別偏見は教師からでした。

中学生だった私が父の喪が明けて学校に登校した時のことです。教師にいきなり朝礼のとき声をかけられ、みんなの前に立たされて「これからもよろしくお願いします」と頭を下げろと言われました。私はただでさえ父の自死でショックを受けているのに、頭が真っ白になりました。しかし当時中学生だった私には教師に逆らえるはずもなく、みんなの前で頭を下げました。そして頭を下げながら思ったことは悔しさとともに「ああ、私はこれから人に頭を下げて生きていかなくてはならない存在になったのだなあ」ということでした。

その後は父の自死にともなう周囲からの差別偏見、家族問題などここには書ききれないほど、辛く苦しいことが沢山ありました。でもそれも全部父のせい。怒りをどこにぶつけていいのかわかりませんでした。

父は39歳で自死したのですが、果たして自分は39歳まで生きられるのだろうか。父に似ている自分の顔も大嫌いでした。その後は摂食障害に苦しんだり、20代のころには自殺未遂をしたり、助かっても毎日死にたいということが頭から離れませんでした。一人っ子だった私は父が大好きでしたが、父を恨み大嫌いになりました。父の自死のことは自分の人生で一番大きなことでしたが忘れたい、もう無かったことにしたいと思うばかりでした。

高校卒業してからは進学で地元から離れていましたが卒業したら地元に戻っていました。しかし地元にいてもやっぱり父の自死のことは周囲の人は忘れていない。進学、就職、結婚など人生の節目になるといつも出てきて私の人生の邪魔をするのは父の自死問題。父が自死をしていることで母も苦労しているのは当然私も見ている。進学、結婚も就職も周囲の親戚からはまず「母」をどうする?と母ありきの話をされてしまう。私のやりたいことは二の次でした。父の自死後はずっと母も父と同じように自死してしまうのでは、という恐怖がいつもありました。周囲の友達は就職、結婚、出産して自分の人生をどんどん決めていく。そんな中私はいつも中途半端で何ひとつ決められない。いつも家族のことと自分のことで板挟みになっていました。

私に勇気があれば家族のことをすべて振り切って、自分の人生を歩むことをすればよかったのかもしれません。が、当時の私は若く全てを振り切る勇気がありませんでした。でも私の人生も歩みたい、そんな葛藤の中私は結局何をどうしたいのか、いつも決められず答えが出ませんでした。友達はいてもこういったことは相談できず、私が生きている限りは父の自死問題に伴う様々な問題は無くならないんだなあ・・・と途方にくれ、答えもでずまた地元を離れることを決意し、学生時代にいた東京に30代前半で再上京しました。

その頃は高校時代からつながっていた摂食障害の自助グループに通いながらお手伝いもしながら、日々悶々としていました。高校生の頃は東京にはさすがに気軽にはいけないので、紙面上のミーティングというものに参加していました。それは月に1回自助グループから送られてくる新聞でした。そこには全国各地の仲間の書いた手紙が掲載されていました。私もその新聞に掲載されたくてよく手紙を書いていました。父の自死後、誰にも言えない気持ちを毎日日記に書いていましたのでその延長みたいなものでした。仲間しか見ないのですが、自分の書いた文章が掲載されたものが送られてくるのはとても嬉しかったのを覚えています。あの頃から私は「自分を表現したい」という気持ちが強かったのかもしれません。

ある日、とある依存症のイベントで参加をしてそのときに当事者発言されている方のお話を聞いて衝撃を受けました。私は人前で話すということは、今思うとものすごい偏見だと思うのですが、頭の良い立派な人しかできない。しかも難しい話や綺麗な話しかしちゃだめと思っていたのに、目の前の依存症の当事者の人は泣きながら、自分の依存症で失敗した話や家族問題、言い方は悪いですが本来だと表に出したくないかっこ悪いを話しをされるのです。でも何故かそれが心に響き、私は「すごい」と思って感動したのです。

そしてそれから私もあの人のように人前で自分の話をしたい、と思うようになりました。それから何度かイベントで当事者発言させてもらうことがあり、摂食障害のこと父の自死のことや母のこと、自分の想いを泣きながらみんなの前で、辛かったこと苦しかったこととをぐちゃぐちゃになりながら話しました。終わったあと「あーあ、何であんなこといっちゃったんだろうと自己嫌悪でいっぱいでした。でも、そのあと会場の参加者から「あなたのお話すごく良かったよ!」と褒めてもらえることがたびたびありました。こんな話でもこんな自分でも褒めてもらえることってあるんだー、と思い嬉しくなりました。

その後、やはり自分自身が父の自死のことをしっかりと向き合わないとと思い、摂食障害のグループとは別に自死遺族の分かちあいの会に通うようになりました。そこで同じ自死遺族の方のお話を聞くことで、自分だけじゃないんだ、自分と同じようにみんな苦しんでいるんだなあと思いほっとしました。

そんな中で教師にされたことを話すと私以上に他の遺族の方が怒って下さるのです。

「その教師はなんてひどいんだ!」と。そのように言われて20年ぶり近くに「そうだ、ひどいことをされていたんだ、怒ってもいいんだ」という感情がむくむくと湧き上がってきたのです。母に教師にされたことを話したのは10年近く経過した後でした。そうしたら母は「そうなんだ」という言葉しかなく、私はとても悲しかったのです。私としては一緒に怒ってほしい、「ひどいね」とか「守ってあげられなくてごめんね」という言葉が今思うとほしかったのです。母とは同じ自死遺族であっても、母と子という立場の違いからか意見の衝突もありました。母もまた父の自死後に苦しい思いをしていました。母子家庭となり、母が働かないと生きていけないこともあり、大変な中ずっと働きながら私を育ててくれていました。今ではとても感謝しています。当時は「母に死んでほしくない」という一心で、私もなるべく母に心配をかけたくない、とい気持ちがありました。なのでのびのびと自分の辛い気持ちを話せる場が出来て私は気持ちが楽になりました。

そして父の命日が近づいてきたときふと「あの教師に会いにいって何故あんなことをさせたのかと直接聞こう」と思ったのです。あの教師が私の人生を台無しにしたと。今思うと、すり替えかもしれませんが、自分はいつも自分から、父の自死から逃げている。自分自身が父の自死で起きたことにしっかりと向き合わないとダメだと思ったのです。

そしてネットで検索したら教師の勤務先の学校がすぐ分かったので連絡をとり、会いに行くことにしました。教師は私のことを覚えていました。そして校長になっていました。

校長室の応接間に通されて、他愛もない近況報告をした後いよいよ本題に突入しました。

「先生はもう忘れているかもしれませんが私は先生にされたことを忘れられないのです。今日は先生に会いに来たのは先生が私にさせたことの理由を聞きたくて来ました」教師は「お前のお父さんのことは覚えているけど、自分が何故そういうことをさせたかは覚えていない。ただ、当時は父兄の間でお前のお父さんのことが大騒ぎなっていたからなあ・・・よくあるだろう、田口、行き違いってやつだ」と笑いながら言いました。私は「はあ、行き違いですか・・・」と。確かに当時は町中で父のことが噂になっていたし、私も父を亡くした直後だったし、当時の友達に聞いても覚えていないっていうし、もしかしたら私の勘違いだったのかな・・・と思いました。しかし、次の瞬間教師から出た言葉に耳を疑いました。「お前さあ、そういうことで悩んでるから結婚できないんだろ」という言葉でした。確かにそうでした。私は父の自死に伴うことで家族のこと自分のことで何も決められず、ここまできたのです。図星でした。悔しかった。でも、だからといって教え子が20年ぶりに勇気を振り絞ってここまで来た気持ちをこの教師は考えたことがあるのだろうか?この教師の言葉ですべてが確信に変わりました。「ああ、この人は父の自死後にも何か私に心無い言葉をかけたんだ」と。でもとっさには何も言えませんでした。教師を目の前にすると当時の想いがフラッシュバックとなって、私はただ自分を冷静に保つのに必死でした。

そしてその後東京に戻り、また自死遺族の分かちあいでこの話を遺族の人たちにしました。

そうしたらまた私以上に遺族の人たちは怒ってくれる。これでまた私に勇気が出ました。

そんな中当時はやっていたSNSでmixiの自死遺族のコミュニティグループにNHKのディレクターの方が出演者募集をしていました。NHKで初めて自死問題の番組を作るというのです。当時は私は今のように活動などしていませんでしたがとっさに「出たい」と思いました。そしてすぐに連絡しました。

そして念願叶い出演することが出来ました。当時は自死や貧困について大きな問題となっていたので、番組の出演者も豪華でした。当時の大臣やまた自死問題に関わる専門家、私のような自死遺族や自死未遂をした当事者や一般市民など50人程度の参加者がいました。番組は生放送でしたので発言機会としては一人1分と言われていました。それでも十分でした。私はディレクターの方の勧めもあり、今後のことも考えて顔出し名前だしせずの出演でした。そこで教師からの差別について話ました。たった1分でしたがそれでも自分の言いたいことを全国の人に発信出来たのはすごく嬉しくてそれだけで満足でした。

そしてその後、出演したことをmixiの日記に書いたところ、同じ番組に出演した方から連絡が来ました。その方は自殺未遂当事者として参加していました。彼女からのメッセージには「私はあなたの発言で自死遺族への差別偏見があるということを初めて知った」とい書いてありました。逆に私は彼女のメッセージに驚きました。「私や母、そして遺族の人たちがこんなに苦しんでいることを知らない人がいるのか!」と。そして私はこれはいかん。と一人で勝手に思い、誰にも頼まれていないのにこの問題について知ってもらいたい、と思いNPO法人の前身「自死遺族への差別偏見の問題を考える会」という名刺を作り一人で活動を始めました。

その後今NPOの世話人になって下さっている宇都宮健児弁護士に当事者発言させて頂いた、山梨で開催されたの自死対策のイベント出会いました。当時は日弁連会長していらっしゃったのですがとても偉い方なのに私が「テレビで見ました。日弁連会長室って立派ですね」と声をかけさせて頂いたら、先生は笑いながら「いやー、あの椅子は座り心地悪いでんすよ。良かったら会長室に遊びに来ませんか?」と言って下さり、活動仲間と行かせて頂きました。私の主催するイベントにも出て頂きました。その後も活動を通じて沢山の出会いがあり沢山の方に助けて頂きました。私にとって一番忘れたくて、人生の邪魔をしてきた父の自死がたくさんの人との出会う機会を与えてくれました。私は現在47歳。とっくの昔に父の自死した39歳を超えています。昔よりは「死にたい」と思う日は少なくなりました。しかし今でも相変わらず優柔不断で決められず、相変わらの独身です(苦笑)今でも逃げ出したいと思うこともある私ですが何とか生きています。今の夢はYouTuberとして活躍できるようにYouTubeに動画アップしてます。良かったら見て下さい。

◆ブログ「自死遺族の私が感じたこと日々あれこれ」
https://ameblo.jp/mira1105/

◆YouTube「セレニティチャンネル」
https://youtu.be/B1L5r0RMcuE

◆NPO法人セレニティHP
https://www.facebook.com/serenity.npo/

以上