届かない、声

静岡県・40代・女


以前から思っていたことがある。「『独りじゃない』なんて嘘だ」って。
何故なら、私は独りだから。

当時交流のあったブログの友人がツイッターを始めたことで自分も始めた。0発進からの声かけは緊張したが、同じジャンル、同じカップリング好きなのが伝われば繋がるのに抵抗はされなかった。着々と増えていくフォロワーとの会話は楽しいこともあれば、辛いこともあった。
時に相談に乗ったり乗ってもらったり、趣味の話以外にもプライベートの話をした。私はなるべく相手のことを考えて自分なりの意見を伝えた。それが良かったか悪かったかは解らない。只いつも最後には「有り難う」と言ってくれた。
だけどそんな友人のうちの一人と喧嘩になった。発端は私の不注意だった。私は誠心誠意謝罪した。然しそれでも友人の怒りは冷めやらず、罵詈雑言を浴びせてきた。流石の私も我慢ならずに反論した。それだけではなく共通のフォロワーに自分の都合良く事実を歪めて伝えた。それを信じたその人は私の名を挙げずぼかし、けれども私だと解る内容で「死ねばいいのに」とツイートした。それ以外にも友人の肩を持ち、私の垢名を晒して「こいつには気をつけろ」や「⚪⚪ちゃん可哀想〜」などと連日ツイートされた。彼女とはそれなりに親しく会話してきたし、一回だけだがオフで遊んだこともある。それが片方の話を鵜呑みにし、正義を気取って他人を貶める人になった。その時人間の情ってこうも簡単に変わるんだなと思った。それから私は半年間ツイッターから離れた。恐怖で心が疲弊し、文字を読むのが耐えられなかったのだ。
熱が冷めただろう頃合いを見計らって再浮上することにした。垢名は変えた。同じままではいつ何時当時を知る人達から攻撃されるとも知れないから。何より私自身が嫌だったのだ。
幾人ものフォロワーが歓迎してくれた。嬉しかった。戻ってきて良かったと思った。でもそれも長くは続かなかった。また別のフォロワーと喧嘩になった。切欠は私が放ったとあるゲームの感想だった。
別に私はそのゲームを貶めてはいない。ただ感じたままを述べただけだ。にも関わらずフォロワーは凄まじい勢いで噛み付いてきた。殆ど言いがかりもいい所の内容だった。お互いにヒートアップして最終的にこの人とも別れることになった。
数年前、初めて炎上というものを体験した。ある人のツイートに私が放ったリプライを見た多数の人間が攻撃してきたのだ。中にはしつこく絡んできた人もいた。今でこそSNSでのトラブルも弁護士対応が可能だが、当時はまだそこまでに至っていなかった。正義を気取って揚げ足を取り、非道な言葉を浴びせることのどこに正義があるのだろう。自身が正しいとする立場ならば相手を傷付け貶めてもいいのだろうか。それは果たして正しい行いなのか。
実生活において友人のいない私はSNSでの会話が全てだ。ツイッターを止めたら私自身死んでいることになる。だから細々と続けている。
けれどそれも疲れてきた。気付けばツイッターを始めて10年以上。初期からのフォロワーは数えられるだけになった。そのフォロワーとはもう長いこと会話はない。繋がっているだけの存在になっている。
最近、好きだったジャンルを卒業し、昔好きだったジャンルに移った。フォロワーの中には同好の士はいない。それ故に私にそのジャンル絡みで話しかけてくる人はいない。
それでも私は「好きな気持ち」を発信し続けた。いつか誰かの目に止まるかもしれないと信じて。
だがそんな日はこない。ツイッター上にはリアルタイムで多数の人間がツイートしているのに誰も私のツイートなど見てはいないのだ。
私は独りだ。いいね一つ、リプライ一つももらえない。
繋がっていても形式上なだけ。皆私の存在など見えぬとばかりに通り過ぎていく。
私が発信することに何の意味があるのだろう。好きの気持ちを維持するのにもかなりのエネルギーが要る。他人と心を通わせ、通じ合うからこそ好きな気持ちをより膨らませることが出来るのだ。
消えたい、死にたいと思うのはこんな時だ。誰の視界にも入らず独りでいる。声を出しても届かない。気づいてもらえない。どうすればこの声が届くのだろう。
この声が届くのはきっと私が死んだ時だ。身内が放つ死亡のお知らせでやっと届くんだ。その時になって「もっと話して、話しかけてくれればよかったのに」って言うんだろう。
そうして一瞬目を向けられた後は完全にこの世から消えて忘れられる。
私は孤独だ。それだけの小さな存在なんだ。

感想1

誰かと繋がりたい思いが伝わってきました。それは人間が支え合いながら共存していくうえで、大切な感性だと思います。

近年は、よく使われるコミュニケーションの手段・方法がどんどん変わっていくので、私も自分に合うものを模索するのは難しいと感じています。

ツイッターで拡散される言葉は、それがどれくらい正しいか、心を込めて書かれたか、ということにはそれほど関係がなさそうだと私は思っています。だから、ツイッター上での他人の反応によって、あなたの感情や存在そのものの価値が変わることはないと言いたいです。

今までの世の中では、手っ取り早く人間の感情を揺さぶることのできる(できてしまう)がゆえに依存性の高いものが量産されてきたのではないかと思います。もしかしたら私もツイートなどをすることで、そんなコンテンツを作る側になったことがあるかもしれません。でも、私はもっと手間暇をかけてリアルに人間が生活していくための共同作業を細々とでも続けていきたいような気がします。

ツイッターではよく「〇〇アカ」と称して用途を決めている人を見かけます。一つのアカウント、ましてや一つのツイートでは、その人の全体を知ることは到底できないと思います。そのうえで、ツイッター等のコミュニケーションツールをどう活用するか(しないか)は、多くの人が悩むところなのかもしれないと、この経験談を読んで考えさせられました。

また、ツイッターのようなたくさんの人が利用しているSNSは、単なるコミュニケーションツールとして使われるだけではなく、それ自体が人々の生活の一部になり、世間的に影響力を持ち、独特の文化を形成しているように見えます。
私はそこに参加するなら、人間にとって優しい文化にしたいと、経験談を読んで思いました。

人間はみんなちっぽけな存在だと思います。一人で世界を変えられる人はいないし、誰かに幸せを届けるどころか、自分を満たしてあげることもままならない不器用な生き物ではないでしょうか。
私もちっぽけな生き物なので、あなたの消えたい、死にたい現状をどうにかすることはできないのですが、できる限りあなたの思いを想像しながら読ませてもらい、考えたことを書きました。

感想2

経験談を読んで、SNS上でトラブルから発信することへの恐怖を感じながらも、好きなものを発信して人々と繋がりたい投稿者さんの葛藤が伝わってきました。好きなものを誰かと分かち合いたいという気持ちとともに、「誰か私の存在に気付いてよ」というような心の叫びからツイートをし続けてこられたのではないかと想像しました。だからこそ、いいねやリプライが来ると、そんな自分を誰かが見てくれたような気がして安心するし、それがないと不安感や虚無感を抱くのだろうかと考えました。

経験談を読んで、率直に発信することの難しさを感じました。本来であれば、人はそれぞれに表現の自由があると憲法でも定められているはずなのに、他者の表現の自由をいとも簡単に犯してしまうことが当たり前になっている世の中に対して、悲しみに似た気持ちになりました。しかも、自分が相手の気持ちや表現の自由を傷つけたり犯しているという自覚はない人が多そうです。それは相手も同じように表現の自由があって、自分の思うように表現しているだけだと言われればそうなのかもしれないなと思いました。ただ、だからと言って投稿者さんが書いてくれたように「正義」を振りかざして、相手を傷つけてよいというわけではないと強く感じています。1つの意見に対して反対の意見や別の意見があるのはある種当然で、それぞれの考え方があってもいいと私は思っています。それを「あなたの意見は間違っている」と否定から入るのではなく、「そんな意見もあるんだね」「その意見に賛同はしないけど、言ってることはわかるよ」とかお互いの考えを否定せずに言い合える社会になることを強く願うばかりです。

投稿者さんが発信してくれたおかげで、その発信が私に届き、投稿者さんの考えを知ることができました。リアルな居場所で中々発信することが難しいということだったので、これまでのようにツイッターで発信するのも1つだと思いますし、「死にトリ」の様々なコンテンツの中で投稿者さんの気持ちを発信してもらえたら嬉しいです。今回、経験談を投稿してくださりありがとうございました。