何にもなれない


長野県 20代 女


私は産まれた時に何種かの病気にかかり中には多大な費用がかかる手術が必要な病気にもかかりました。今調べて知ったのですが、生涯的に通院が進められるらしい病気であったそうです。これらは私が0〜3歳に起こったので私はその大変さも辛さも負担も感じていません。今も感じていません。お腹には大きな手術跡が残っていますがそれだけです。跡があることも忘れていることがあります。親不孝なことです。大変な苦労をかけたのに今とても生きていたくないのです。今までもお金を返すこともできないまま、私と言う形が無くなってしまうくらい消えた物になりたいのです。嫌な人間です。

人と比較し、相手が自分よりも劣っていると思うと安心します。それを続けていた今は不安しか残りませんでした。人から怒られるのが怖いです。怒鳴り声や張り詰めた空気が怖いです。人に見下されるのが怖いです。
何故他の人は自分の延長線で人と話すことができるのでしょうか。
何故「こうなりたい」と思えるのですか?
常に根暗に生きてきたのでポジティブに生きる方法がわかりません。
もう失敗してることはわかってるのに、「良くなろう」「頑張ろう」が表面だけにあるのです。なんでこんなにできないんでしょう。

感想1

経験談を読ませていただいて、まず私が感じたのは、産まれた時にかかった大きな病気と投稿者さんが今「生きていたくない」「消えた物になりたい」と思っていることが、直接は関係してなさそうということでした。大変な苦労をかけたのに今「生きていたくない」と思っていることへの申し訳なさのような気持ち(つらさの強化)があるように私には感じられましたが、病苦から「生きていたくない」ではなく、もっと別な理由や背景があるのだろうと想像しました。

むしろ「怒鳴り声や張りつめた空気が怖い」「もう失敗してることはわかってる」といった表現の中に今の気持ちにつながる背景や理由が潜んでいるのかもしれないと私は思いました。

 投稿者さんが、なぜ人と比較し続けなければならなかったのか、なぜ「何にもなれない」と思うようになったのか、そこには何か社会の問題や課題が潜んでいるように感じ、もっとお話をお聴きしてみたいと私は思いました。

なぜ「こうなりたい」と思えるのか?という疑問について私なりに考えてみました。
私自身はあまり「こうなりたい」と思う方ではないと自分では思うのですが、振り返ってみると、何かに取り組み始めた時に「もっとこうできたらいいな」と思うことはあるように思います。個人的には探求心や欲といった「主体性」が関係しているのかなと思いました。

ただ、主体性は「こうしなければならない」といった「強制力」が強い環境だと育ちにくいのではないかと思います。私は、将来のような大きな「こうなりたい」はなくてもいいんじゃないかと思ってしまいますが、日常の中で、自分にとっての快・不快の「快」を見つけたり感じたりする瞬間を増やすことで主体性が少しづつでも育つかもしれないと考えたりしています。

感想2

幼少期の病気は、偶然に罹ってしまったもので、誰のせいでもないと思います。

今の日本のような、医療費を個人(家族)が負担しなければならない仕組みは、経済的・社会的に弱い立場の人ほど医療を受けることに後ろめたさを感じてしまうなどの問題があり、望ましい形ではないと、私は考えています。

また、身近に頻繁に怒る人がいたのかなぁと想像しました。もしかしたら今もそのような環境にいるのではないかと心配になっています。怒られたら怖いのは当たり前だし、消えてしまいたくもなりそうです。何かをやりたい気持ちがあったとしても、怒られることへの不安や恐怖で、小さな希望の芽は摘まれてしまうのではないかと想像してしまいました。

ポジティブになりたいと思うことは自由ですが、ポジティブになる必要はないと思うのです。不安を感じながらも今を生きていらっしゃる姿は尊いなと感じました。よければこれからもネットの居場所に声を寄せてもらえるとありがたいです。

返信

ご感想ありがとうございました。せっかく匿名で利用できるコンテンツに対し、自分の無駄な取り繕いやカッコつけをなくし、ただの匿名として曝け出そうとした結果ひどい文章になってしまいました。

感想1さんがおっしゃる通り、私は病気に対して、今も大変さも辛さも負担に感じていません。私が今病気持ちというのを思い出すのは食前の薬と手術跡くらい。他の方より腹痛が多かったりしますが、物心ついた頃からなのでこれは私にとっては普通です。なので、「なんでこんな体で産んだの」なんて、発言にも行動にも意味のないこと思ったこともしたこともありません。感想2さんのように、産まれた時の病は誰のせいでもないと私にも他の方にも思っています。
「親不孝ものになってしまう」ことを「死にたい」の免罪符にしているだけです。「死にたい」よりも「死ぬのが怖い」が勝り、さらに「生きていたくない」が勝ると考えました。自分というものが、熱で溶け蒸発する様に、水に溶媒するように、跡形もなく消えていきたい、無くなりたいと感じています。それは自分が過去の幼稚で軽はずみな生き方で自分自身に対しても信頼もなく、他人からの評価もなく、これからの人生に典型的な落ちぶれしか見えないのです。

身近の怒る人について思い出してみました。多分父と母、悪化させたのは自分のせいだと思います。
父はでもオタク気質な頭が良い人で、怒ったことも少なかったです。けれど、怒った時のタイミングはよくわかりません。何がトリガーだったのか分からず怒鳴られたことがありました。また、明確に嫌ところがあります。こちらの言い分を話しても同じこと説いてくる所です。話が通じず、今更どうしようも無いことを何度も「〜だけどどうするんだ」と責め立てられているようでした。私が悪いしか結局理由がないのです。私には兄弟が多く、上の兄弟も父と同じように揉め泣いていました。泣くのかと思っていましたが私も泣いてしまいました。昔、皆んな寝た頃母も言い争い泣いていました。

母は私が一方的に話してもちゃんと聞いて相槌をしてくれます。私も兄弟も反抗期というものがなかった気がします。母には感謝しています。怒られるのも私や下の兄弟が夕飯に呼んでも一向に来なかったときなど、明確にこちら側に非があり理由があります。珍しく声を荒げ怒り自分の寒い部屋を暗くして篭ります。謝りに来るのを待っているようで、私も「〇〇してごめんなさい。これからは〇〇しないようにします」と謝りに行きます。
普段温厚で面白い母がこういう空気になり、謝らなければいけない状況が嫌だったのかもしれません。

小さい時から駄々をこねたり泣いたりした覚えがありません。そうなりそうな時、空気が変わるのを感じました。欲しいものがあって買って欲しかったときも「絶対買わない」という空気を感じやめました。父の嫌なところが出そうな時も空気を感じのらりとかわそうとしたりしました。こうしなきゃと思い、家族の前で笑わせようと変な動きをしてみたりしました。笑ってくれました。そうすることを望んでるのを察してもっと笑わせようとしました。なので空気が読め気遣いするのが私の特技かもしれません。でも気を遣ってしたことだったのに私の性格だと思っているのか今となっては笑われているようで少しイライラします。今となっては誰も望んでないこともわかります。大人と言われる歳になって、無神経さを見せる父母、祖母、兄弟に感じてしまいます。

私の育った家庭が厳しかったと言われるのか正直微妙ですが、「主体性」が無いんですね。納得しました。「何が好きなの?」「何をしたいの?」「目的はなんなの?」「何が得意なの?」と言われると、本当に頭の中が無になってしまいます。流石にだめだと思い自分の好きなことなど書き出しています。自分のことを考えると泣いてしまいます。得意なことを聞かれるのも苦手です。発表するなら自信があるものじゃないと笑われてる気がして。なので人から褒められると些細なことでも泣いてしまいます。こんな私がうざくてしょうがないです。これで嬉しくなっても言ってくれた人は心から言ってるわけじゃなくて可哀想に見える私を憐れんでるから言っているようにしか聞こえなくて、構ってちゃんの私が嫌いです。

はじめて私の中身をだしている気分で長くなってしまいました。すみません。楽になったというよりかは、自分をみれているのがよかったです。ありがとうございました。