こんにちは。岡本圭太さんからご指名いただきました鈴木由美と申します。いまは、千葉県で生活や仕事のこと、家族のことなどに困っている人の相談を受けて、さまざまな支援をしています。なんでも相談屋さんですね。
〇この仕事をやっている理由
私がこういう仕事に就いたのは今から15年くらい前になります。知り合いから声をかけられて始めたので、りっぱな動機があったかと言われれば、特にありませんでした。はじめは、いわゆる「ニート・ひきこもり」支援からスタートをしました。まったく会ったことがない人たちだったので、どういう人なんだろうと思ったのですが、実際に話してみてショックでした。
自分が考えていたこと、悩んでいたこと、モヤモヤしていたことなど人に言っても仕方ないと諦めていたことを、出会った若者たちは真剣に悩んでいました。社会で言われているニートやひきこもりの人たちと全然違うじゃないか!と衝撃を受け、同年代だったこともあり、一緒に悩んだり議論をしたりといった時間を過ごすようになりました。
そのうちに、どうやらそういう話をしても解決していかない人がいることに気が付きました。そもそも親御さんとの関係が悪く、生活も苦しい、学校にも行けなかった…生きていることすらも手放しそうな若者に目が行くようになったことが、本格的に福祉の道に進むきっかけだったと思います。
〇私の原体験
そもそも私自身も葛藤の塊のような人生を送っていたことがあります。私の父はスゴイ大学のエライ先生でした。母は良き家柄の上品な女性でした。兄は生まれながらの天才肌で、なんだか知らないけどスゴイ頭の良い人でした。私はそんな家庭で「凡人」として生まれました。
物心ついたころから、「そのままの私」自身を見てくれる人は周囲にはおらず、何か条件がついた自分でないと誰からも認められないと思っていた日々でした。「テストで100点をとった私」「ピアノの発表会で失敗しなかった私」「生徒会役員になった私」「近所で評判の良い子の私」…父は子育てには無関心、兄は早々に家を出て我が道を進み、母は私に対しての教育熱や過干渉が激しくなりました。高校生くらいでしょうか。東京の高校に進学したことをきっかけに何かが私の中で破裂して、髪の毛をベリーショートにして金髪にそめて、スカートを短くして学校に行くようになりました(笑)若気の至りですね。飲めない酒を飲み、吸えないたばこを無理に吸って、親のお金でいろんな悪いことをしましたが、言葉にならない苦しさ、かなしみでいっぱいでした。いろんな人と会っているはずなのに、そんな話ができる友人すらいませんでした。
とても印象に残っている景色があります。その日もひとりで街をぶらついて、自宅に戻る始発の電車の中でした。東京から千葉に戻るときには江戸川を越えるのですが、朝焼けと川の景色がキラキラと眩しくて、くすぶっている自分だけがなんだかみすぼらしくてしょうがない気持ちに襲われました。
親にさからったところで何も変わらない、力のない自分が何をやっても何も変わらないどころか失うものも大きいということに気がついた瞬間だったのかなと(今だからわかる)思いました。
〇支えてくれたおとなたち
私には良いところも悪いところも無条件に受け止めてくれる人はいませんでしたが、社会人になってから本当に多くの良きオトナに出会うことができました。この点は神様?か誰かに感謝したいと思っています。
新卒採用で入った法人で本気で怒ってくれたおばあちゃん職員、おせっかいすぎる先輩や上司、初めて入った会社組織で厳しいながらサポートしてくれた上司や同僚…数え上げればきりがありませんが、私はこの人たちに育てなおしてもらい、人間として成長できたのだと思いました。そして、この社会こそが私が求めていた自由な世界でした。
〇それでもあとを引きずる親とのこと
そんな社会人生活でも私を絶対的に評価するのは紛れもなく両親でした。私が実家に帰るたびに両親から仕事ぶりや生活ぶりをどう評価されるか緊張していました。それは30代になっても続きました。結局私はその重荷に耐え切れず、また長年の働きすぎ(思うにこれは承認欲求がなせるわざです)からパニック障害とうつ病を発症してしまいます。特に母親とはこのことがきっかけで大きな衝突をしました。完全な和解はなかったと思います。それでも、少しだけ親子関係が進んだきっかけとなった出来事でした。
11年前に父を、1年半前、母が亡くなり、両親二人が他界しました。自分の一部分が切り取られたような感情がありました(意外にも)。そして同時に、何か絶対的な存在から解放された少しほっとした気持ちもあったことも確かです。
親と子の関係は一言では表せないほど複雑怪奇なものです。私の文章を読むと、とんでもねえ親だなと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、それでも愛情を受けて育ったこともあったと言える部分もあります。結局のところ、親の死という出来事により、私の親子関係の考察はある程度の結論を出して終わったように思います。そしてその結論は何か「あったかいもの」として自分の中に存在しています。
何かをあきらめることで見えるもの、時間をかけて理解していくこと、理由はわからないけどある日、腑に落ちるできごと、これというきっかけがなく解決していくこともあり、中には誰かの助けが必要なこともあると思います。その分別作業がけっこう大変なんですよね。若い頃に、こういう話を聞いてくれる友人や家族以外のおとなや先輩がいてくれたら、きっと私の学生時代の記憶はもっと違うものになっていたのかなと思います。でも、孤独の中ではそういうことも思いつかないんですよね。いまさらどうにもなりませんが、あのときもっとこうしていたらと、今でも考えてしまいます。
なんだかとりとめもない話になりましたが、私自体があまりまとまりのない人なのでご容赦ください。なにより、こういうお話の落としどころは死ぬ間際でないと見つからないものだと思っています。私もまだ苦しんだり、悲しんだり、自分を立て直すことで精いっぱいの小さい人間です。今でも、すべてが面倒になったり、どうでもよくなってしまうこともありますが、この仕事について、自分自身をあきらめてしまったら、今まで私がかかわってきた人をもあきらめてしまうことになると思い、なんとか踏ん張っています。今、私がやっている仕事こそが、私自身の命綱になっています。
この文章がネット空間にふんわりと浮かんでいるということが、ちょっとおもしろいなと思っています。誰かが読んでくれるだけでもうれしいです。
最後まで読んでくれて、ありがとう。