出来損ないの人生


福岡県/30代/男性


自分の人生を振り返ってみると、出来損ないな人生だったなって思います。

田舎に生まれ、幼少期は何不自由なく育ちました。今思えば甘やかされてた様な気もします。泣き虫だった私は、よく近所の子に泣かされてその度に周りの人が助けてくれる、そんな環境でした。それが人生が狂うきっかけでした。

中学生になると、からかいがエスカレートしいじめに発展。毎日毎日涙を流す日々でした。初めは自分が泣くと、相手も焦って謝ったりしてきていたのですが、徐々に泣かせることが面白いとなり、今まで加担しなかった人も私をいじめる様になりました。
そして一番最悪だったのが、そんな私を支えてくれていた友人と教師の裏切り。友人は自身がいじめの標的になるのを恐れて、私をいじめる側につきました。そして、相談していた当時の担任からも「お前がもっとしっかりしないからじゃないのか?」と突き放されてしまいました。どうして自分ばかりこんな目にあうのか、生きている心地がしませんでした。

10数年経ち、私は生まれ故郷を離れ生活しています。しかし、今もなお精神的な傷は癒えず、故郷で私を知る人間は今でも私につっかかってきます。故郷を逃げる様に出て、せめて誰も知らないところで静かに暮らしたいだけなのに。普通に生きたいだけなのに、なぜこんなにも苦しみと隣り合わせで生きなければならないのか。
自分がしっかりしていれば違ったのか?
こんな出来損ないな人生しか歩めなかった自分に失望しかありません。

感想1

これまでに生きてきてた、幼少期のあなたにとって不利益で理不尽な人間関係を断ち切り、新たな土地で新しい環境や人と共に生きることを、私は「逃げる」とは感じませんでした。むしろあなたは自分にとって不利益かつ理不尽な環境から離れることで自分を守り、新たな人生をスタートすることは、その場にとどまり続け、自分さえ我慢していれば、という決断よりもよほど勇気のいることだったかと思います。そのような選択をし、今を生きているあなたを、どうか責めないでほしいと思いました。

精神的な傷は今も癒えていないかもしれないし、故郷の人たちはあなたをそのようにいまだ扱うことは、今日明日で解決することは難しい問題で苦しめられることは多いかと思います。何をもって出来損ないとするか、あなたの土地の価値基準などもあると思いますが、少なくとも今のあなたはそこから脱出しているのでは、と感じています。

人は、生まれた人と場所を選ぶことは、残念ながらできません。しかし、どの場所で、誰とともに、何者として生きるか、は自分自身で選択できるものではないかと、私は信じています。

今のあなたの生活自体はもう故郷を離れ、静かに暮らしているのではないかと想像しています(もし違っていたらすみません)。あなたを苦しめているのは、その静かな生活を邪魔する過去の癒えない精神的な傷ではないでしょうか。

ここまでたどり着いたあなたの人生は、決して出来損ないなどではないと、私は強くお伝えしたいです。過去や故郷の傷は深いことと思いますが、ぜひ、失望せず、ご自分の選択や決断を讃え、「今」を生きてほしいと思いました。

感想2

 「苦しみと隣り合わせ」の毎日を今も過ごされているということなのですね。そのフレーズが気になり、一度読んだ後、あなたは一体どんな苦しみを毎日感じているのだろうと想像しながらもう一度読ませてもらいました。

 幼いころは周囲から甘やかされてきたとあなたは感じてこられていて、それによって自分が「しっかり」出来なくなり、そのせいか中学生時代からはいじめを受け、信頼していた人から裏切られてしまった。そんな風に自分の人生を振り返られているのかなと思いました。人から悪意を向けられる恐怖や、裏切られる失望、そういった苦しみがあなたの心には刻み込まれてしまったのでしょうか。そしてその傷が、今でも突っかかってくる人によって、掘り返され、かさぶたが出来ずに痛み続ける、そういった状況なのでしょうか。こうして想像してみても、きっとそれだけではわからない苦しみがあなたの中にはたくさんあるのだろうと思います。あなたの心の内で残り続けるその苦しみはどんなものなのでしょうか。あなたの経験談を何度も読んでいるうちに、もっとあなたのことを知りたいと思いました。

 また、もう一つ印象的だった言葉が「しっかり」というものです。当時の担任の言葉がきっと大きなショックだったのだと思います。その言葉があなたを今も縛り付けてしまっていないかと読んでいて感じました。「しっかりする」って一体どういったことなのでしょうね。あまりにも漠然とした言葉なのに、世の中の至る所で使われていて、よく違和感を覚えます。自分のことを一人で対処することなのでしょうか。でも私なんかは、困ったときに人に頼ることが出来るのも大事なのにな、と思います。それにいじめられる側より、いじめる側の方がしっかりしているという意味なのでしょうか。そんなはずはないと私は思います。

こういったぼんやりとした言葉は世の中に溢れていると日々感じます。「しっかりする」、「普通に」、「常識的に」、「まとも」などなど。自分でもこういった言葉を簡単に使ってしまうなあとも思うのですが、時にはそういった漠然とした言葉の方が人の心の傷を残すこともあると思うのです。切れ味の良いナイフよりも切れ味の悪いナイフの方が、出来た傷の治りが悪いのと似ているのかもしれません。「しっかりしろ」とか「まともじゃない」とか言われても、答えのない問題を投げかけられているようで、ずっと残ってしまう、みたいに。

私自身も、もっと普通になりたい、と思うことがあります。でもその「普通になる」ことと、私にとっての「幸せになる」ことがイコールではないと思うこともあります。本当に難しいですよね……。「出来損ない」という言葉も、あるべき姿から何かが欠けているということだと思うのですが、そのあるべき姿というのも漠然とした姿なのではないでしょうか。もしそれが「しっかりしろ」という言葉から生まれた、押しつけられた姿なら、それよりも、あなた自身の幸せと直結するようなあなたにとっての「あるべき姿」が見つかればいいなあと思います。私も「普通になる」ことじゃなくて、「自分の幸せを感じられること」を探していこうと思いました。

 精神的な傷も、身体的な傷と一緒で、治療が必要なものと、傷を放っておくことで時間の経過とともに治っていくものがあると思います。だから故郷を離れて静かに暮らすことは逃げではなく、あなたにとって最善で必要な行動なのだと私は思いました。それでも苦しみが隣にいるということで、ここに経験談を書いてくださったことが、あなたの傷を癒すための一つのきっかけなったなら嬉しいなと思います。