努力が報われるのは

茨城県・23歳・女性


 努力が報われるのは、運のいい一部の人間だけだと思う。まともな親に育てられた人、他を圧倒するような才に恵まれた人、手を差し伸べその場所から引き上げてくれる誰かに出会えた人。あとの人たちはたぶん、どんなに頑張って足掻いたって、身も心も擦り減らすばかりで、報われる確率なんて奇跡に等しいのではないかと思う。

 わたしはいわゆる出来の良い子どもだった。言われたことをすぐに理解できたから、求められたように振舞った。勉強もべつに好きではなかったけれど、一度授業を聞けば頭に入ったから、予習復習もせずたいして頑張ってもいなくたって、ずっと学年で片手の指に収まる順位にいたし、偏差値だって70を超えていた。何かにつけてまとめ役を任されて、学級委員や生徒会役員だって務めたし、所属していた吹奏楽部でも1年生の時からずっとコンクールメンバーとしてステージに乗っていた。国語の授業で書いた作文が何かのコンクールに入賞することもよくあることだった。いつもきっちりと校則は守ってにこやかにしていたから、先生たちからの覚えもめでたくて、ずっと優等生だった。小学校に入学する頃には自分と弟の朝食はわたしが用意をしていたし、風呂掃除洗濯と一通りの家事は覚えていた。学校の保護者宛の書類の管理も当たり前のように自分でしていた。わたしは手のかからない良い子だった。でもそれは、わたしが望んでいたからではない。手のかからない子どもでいなければ、家庭にわたしの居場所はなかった。

 自分の置かれている環境がなんだか周囲と違うことに気が付いたのは、わりと早い頃だったように思う。小学校の3年生のときには既に、自分と周囲との間に透明な壁があることを感じていた。その頃にはもう生きづらさを感じていた。生きづらさを感じていた理由は当時はまだわからなかったし、生きづらさ自体もはっきりと認識はしていなかったように思うけれど、それは「どんなに頑張っても自分は親から愛されない」という事実を認めたくなかったからだと思う。弟は親からも祖父母からも惜しみない愛情を向けられていたのに、それが自分にだけは向かない事実をどうしても認めることができなかった。それでも流石に高校生になる頃にはそういうものなのだと諦めがついた。幸いわたしには音楽があった。楽器を奏でている間は何にも縛られずに自由でいることができた。だからわたしは音楽を生活の糧にしたいと思った。音楽を仕事にしたかった。しかし、音楽業界が生半可な覚悟で生きていける世界ではないことも、そもそも独学で国公立の音楽大学に入ることができる程の才能がないことも知ってしまっていた。そして、家庭に金銭的な余裕がさしてないことも、仮にその余裕があったとしてもそんな自由が自分に与えられるはずがないことも、わたしはとっくに知ってしまっていた。けれど、わたしは勉強が得意であった。だから、演者として関わることができなくても理系の道に進めば技術者として、楽器や音響に関わる仕事ができると考えた。そして、努力をすれば国立大学の理系学部に手が届く程度の能力をわたしはもっていた。

 すべてがガラッと変わったのは高校3年生の春だった。端的に言えばわたしの心が折れてしまった。受験のストレスと家庭環境によるストレス、そしてにこにこ猫を被って素の自分を出すことのできない生活、部活も引退して吐き出す先がなくなり、ため込むしかない消化不良の感情たち。気がつけばそれは抱えきれないくらい大きくなって、存在を自覚するよりも先に身体症状として表れるようになった。いわゆる過敏性腸症候群のガス型を発症した。お腹にガスが溜まるようなってからは、坂道を転がっていくようだった。ガスを気にするあまり、においで不安になり、周囲の変哲もない会話や談笑が、自分を嘲笑っているように感じるようになっていった。誰もが無言のはずのテスト中にさえ嘲笑や陰口が聞こえていたから、それらは本物ではなく幻聴なのだとわかっていても、どうしようもなく教室という空間が怖くなってしまって、それはやがて教室という空間だけにとどまらず対人恐怖となり、とても勉強に集中するどころの精神状態ではなかった。そうしてわたしはようやく見つけた夢も諦めた。紆余曲折を経てそのあとわたしは大学生になった。大学生になっても一度完全に崩れてしまったバランスを取り戻すことはできなかった。やがて不眠や食欲不振に加えて、希死念慮も段々と強くなり、学生相談室に通うようになったわたしは、精神科の受診を勧められた。受診した病院でも大学を卒業するまでお世話になった相談室でも、わたしは「家庭環境が原因の適応障害」であろうと言われた。大学を卒業して実家をでるまでの辛抱だから、なんとか耐え抜こうと話をされた。わたしはそれを信じた。環境が変われば苦しみが楽になるのだと少し肩の荷が下りたような気分だった。

 そして大学を卒業し、わたしは社会人になった。実家とは違う県に就職し、高齢だったペットを引き取ってひとり暮らしを始めた。ペットはわたしに一番懐いていたし、実家に残しても最低限の世話しかしてもらえずに病院に連れていってもらうこともできないだろうと直感したので、たとえ多少負担になろうとも実家に残すよりは絶対にマシだと思った。一人と一匹の生活が始まった。覚えることは色々とあったけれど、職場の人たちはとても親身で親切で、家に帰れば最愛のペットが待っていて、大きなストレスになるものなんて何もないはずだった。それなのにやっぱり苦しくて、夜眠れば実家の夢を見て魘されて、消えたい気持ちも小さくなることはなかった。そして転院した先の病院ではストレス因(実家)から離れた現在の状況も加味したうえで「あなたは適応障害ではない」との言葉をもらった。一度は名前がついたはずの苦しさは、またつかみどころのない対処し難いくせ者に逆戻りしてしまった。そんな折、ペットが病気で亡くなった。拡張型心筋症だった。けれど、人間でいえばもう100歳になる年齢。だからほとんど寿命だったのだろうと思う。しかし、わたしにとってその子は単なるペットではなく、人生の半分以上を共にしたパートナーであり、人を信じることができない私が唯一手放しに信じることのできる存在であった。唯一の生きる理由でもあった。

 幼い頃のわたしは、ただ親からの愛情が欲しかった。だから周りをよく観察して、どうすれば気に入ってもらえるのか必死だった。頑張って、たくさん一番もとった。でもそれはただの徒労でしかなかった。高校生になったわたしは、親からの愛情を諦めて外部の世界に欲しいものを見つけて必死で手を伸ばした。けれど、愛情を注がれなかった不安定な土台はストレスに耐えきることができずにあっけなく崩れて、伸ばした手は空を切り、自分にまで裏切られた。社会人になってからは、寄り添ってくれるペットを支えに這い上がろうと必死で足掻いた。けれど、寄り添ってくれる存在は冷たくなり、本当にひとりになった。たくさんたくさん頑張ったつもりだったけれど、何ひとつとして実を結ぶことはなかった。期待して裏切られて、それでもまた手を伸ばして。どんな一歩でも次に繋がると信じて歯を食いしばって。けれど、全部ぜんぶ無駄だった。欲しいものには手が届かなくて、大切にしていた唯一の存在も手からこぼれ落ちた。もう生きる理由もなくなって、ただ惰性で死なないでいるだけ。頑張る気力も体力もない。何もかも疲れてしまった。世の中の歌も物語も「努力は報われる」と謳うけれど、そんなものはただの綺麗事に過ぎなかった。何年も信じて頑張って消耗して馬鹿みたい。ただただつかれた。なにもかも全部投げ出したい。朝目が覚めて一日がはじまることに絶望して、重い身体を無理やり起こして支度をしながら、ベルトやマフラーを手にしてふと、これを使えば終わらせることができるのではないかと夢想をする。通勤途中にあるドラッグストアが目に入る度に風邪薬と自宅にある処方薬をすべて使えばもしかしたらと頭に浮かぶ。それでも漫然と日々を繋いでいるのは強すぎる義務感の影響もあるかもしれない。これさえ捨てることができれば踏み出せると思うのに、いつまで経ってもそれができなくて半端者だと感じる。ゲームみたいにデータの削除がボタンひとつでできればいいのに。そんなことを毎日考えて頭がいっぱいなのに、現実世界では心理士なんて仕事をしていて、自分を殺したい人間に人を支えられるはずなんてないのにと思う。なにからなにまでちゃんとできずに中途半端。はやく終わらせたい。終わらせてほしい。

感想1

経験談の投稿ありがとうございます。文章を読んで、これまでの辛かった出来事にあなた自身がじっくり向き合い考え、行き場のない気持ちを抱えながら、これまでそして現在ももがき苦しんでいる様子が伝わりました。
辛かった出来事や自分自身としっかり向き合っているからこそ、生きづらさの原因に気付いたのだと私は思います。ですが、気づいたもののどう取り扱っていいか分からない心情も想像できました。
実は、コメントを書いている私も親の求めるいい子でいないと居場所がない家庭で育ちました。自分を犠牲にしてまでも人の顔色を伺ったり、その場の空気を明るくするように笑っておどけたりと私なりに居場所を確保するために努力していたように思います。幼い頃からその環境にいると辛いということも言葉で伝えることもできなかったし、そうやって適応しているふりをしていた方が、人が入ってこれず楽だったので、無意識のうちに身体に染みついていました。それは、生き抜く術だったのですが、その場のみの対処法にしかならず、心はいつもぽっかり穴が空いていたと思います。
私のことを長々と書いてしまったのですが、そんな私だからこそ、あなたが文章で表現されていた言葉の一つ一つが、とても共感できることばかりでした。本当は自分の思いや考え、好き嫌い等あるのに、押し殺しながら生きてこられたのではないと想像しました。
あなた自身「手のかからない子ども(優等生)」で過ごしてきて、辛かったこともたくさんあったと思います。ですが環境によって、それ自体は、人に合わせることができ、なんとなく相手が求めることを察知することができる能力にも変わるので、あなたが生きていくうえで強みになるのではないかと私は感じました。私は、勝手に同じような境遇で育ったと思っているのですが…(笑)
これからも、同じような境遇や苦しみを抱えている人と死にトリのここチャットやとりコミュのツールを使い、話をしながら、辛い経験から見えてくる物事の本質を一緒に探りたい、眺めたいなぁと率直に思ったところです。辛いことを語るということをタブー視されている社会の風潮がありますが、ここでは思い切り語ってほしいと思います。

感想2

経験談を読ませてもらいました。

「努力が報われると信じて努力したけれども、報われることはなく疲れるだけだったから死にたい」といった思いが滲むように伝わってきました。なんとなく死にたいというより、これまでの経験から自分なりの理由があって死にたい思いになるのだろうと思いました。

あなたは色々なことに「理由」を持って(作って)生きてきたのかなと推測しています。もしかしたら、何かを「信じる」ためには「理由」が必要だったからなのかなぁと考えました。そして「信じる」ことも多かったのかなと思いました。とにかく、手が届くはずだと信じなければ、「良い子」であることは不可能だったのではないでしょうか?(あくまで私の推測です)
良い子でなければ家庭に居場所はなかったということなので、良い子をやり続けるために様々なことを「信じる」ための「理由」を作る必要があったのだろうと考えました。

それから、親からの愛や音楽の夢など、「諦める」こともたくさんあったんだなと伝わりました。他人から見ると、困難なくやっているように見えそうですが、本人が満たされているかどうかは全く別の問題だと改めて気づかされました。でも、外側から見えづらい「満たされなさ」は、見落とされてしまいがちなようで、もどかしく感じます…。

「ちゃんとできずに中途半端」という言葉からは、やりたいと思ったことは完ぺきにこなしたい気質(?)があって、どっちにも偏らない中庸の状態を受け入れるのは少しハードルが高いのかもしれないなと想像しました。

今更遅すぎる…!と思われそうなのですが、私はあなたの「欲しいもの」があるなら、一緒に向き合ってみたいと思いました。その材料は何で、どこにあるのか、どうやったら作り出せるのか。もともと欲しかったものと形や素材は違っても、実質的には同じように満たされるものを用意することはできないのかと…。

恐縮ながら、この感想を読んでもらえる機会のあることが、私の「ほしいもの」に加わってしまいました。サイトを見て投稿してくれてありがとうございます。

お返事

 この度は、経験談に関する感想を丁寧に書いてくださり、ありがとうございます。なかなかこうしたネガティブな内容の考えについては、第三者の方からの客観的な意見を伺うことができないので、とても貴重な体験でした。


【「感想1」を執筆してくださったスタッフ様へ】
 「自分の辛さを表現できず、その場に適応しているフリをすることが身体に身について、心にぽっかりと穴が空いていたような感覚」というものはまさに私も感じていて、いただいたコメントを読みながらとても共感しました。また、「生きづらさの原因に気づいたもののどう取り扱っていいのか分からない」という内容についてもまさにご指摘いただいた通りで、私の場合は自分の感情を押し殺すことを続けすぎたせいで自分の感情が自覚できなくなって、おそらく感じているはずの主に身内に対する怒りなどの感情も全くわからなくて、そうしたものが自分で自覚できないままに攻撃性として表れ、それが死に対する衝動なんだろうということは理解できているものの、そこで止まってしまって、まさにどうしていいかわからなくなっています。喜びや楽しさもよくわからなくなっていて、それを感じているかのように、世間一般のいわゆる「ふつう」の人のようにきちんとそうした感情を感じているかのように装うことはできても、実際には空っぽなので、余計に日々を繋ぐ意味が見出せず、すべてを終わらせたくなっているんだろうなと思います。あくまでこれは私のケースの話であって、もちろん一般化できるようなものではありませんが、こうした経験や事例がなにかの役に立って、コメントいただいた「物事の本質」のようなものを探る手助けになれば、私にとってもとても救いになるなと感じました。「なんとなく相手が求めることを察知することができる能力」については、今している心理のお仕事では特に必要となる能力なので、育ちの影響による不安定さがベースなため諸刃の剣ではありますが、確かに私の強みになっているのかもしれません。今はまだ難しいですが、もしもこのまま生き続けて、さらに対人援助の仕事を続けるのであれば、上手に活用できるように余計な部分は削ぎ落としながら磨きをかけていきたいと思います。


【「感想2」を執筆してくださったスタッフ様へ】
 「信じること」は今の私からはかけ離れている力なので、こうしてご指摘をいただいてはじめて、かつての自分が様々なことを必死に信じようとしていたことに気がつきました。自分なりに理由や論拠をもって、それを糧にしなければ、そして信じるもの(ゴール)を設定しなければ、自分という軸が保てなかったんだろうなと今更ながら感じました。幸いというべきか不幸にもというべきか、良くも悪くもそれらをある程度達成することができるだけの能力があったおかげで、まさに第三者からは「何の困難も問題も抱えていない良い子」に見えていたことだろうと思います。ただ、心理学を専攻して知識を身につけて、また今現在、心理職として仕事をしていて実感していることは、問題行動を派手に起こすことができる子どもの方が救いの手を差し伸べてもらうことができるのに対して、取り繕うことができるだけの能力をもってしまった子に対しては救いの手が差し伸べられる可能性は限りなく低いということです。問題なくそのまま一生過ごせるのならばそれでも良いのかもしれませんが、そうして見落とされて大人になった人たちが限界を迎えて折れてしまった際には、蓄積されていたダメージには目なんて向けられず、最後の一押しになった事柄だけが注目されて、「その程度のことで」と非難され責任を取らされることが多いのが現在の日本のように思います。もっと寛容で、受け皿の広い社会になってほしいと切に感じています。
 わたしが「どっちにも偏らない中庸」の状態を受け入れることが苦手な背景には、やはり「あなたはできて当たり前でしょ?」と評価され、減点方式でしか見なされてこなかった育ちの影響が大きいのだと思います。実家を離れて金銭的にも自立して、物理的な接触は断たれているはずなのに未だにがんじがらめに縛られていて、まるで呪いのようです。かつて実家に阻まれて諦めていったもの、手放した想い、欲しかったもの。今のわたしは自分の感情すらよく分からないので、手を伸ばすことのできる状況に置かれていても、手を伸ばしてみようという欲求がまるで湧いてこなくて、不条理だなと思います。もしもこのまま終わらせることができずに生き続けるのであれば、少しずつ時間をかけてでも、今の自分がほしいものを見つけて、空っぽの中身を自分の真に求めているもので埋められるように努力できるようになりたいです。


【ここまで目を通してくださった皆様へ】
 とても長くまとまりに欠けた文章になってしまいましたが、わたしの書いた文章が誰かの目にとまって、何かを考えるきっかけや気づきのようなものに繋がってくれたとしたら幸いです。ここまで長々と文章を書き連ねてしまいましたが、最後まで目を通してくださり、ありがとうございました。