埼玉県 永野勇気さん


はじめまして。山田詩織さんからバトンを受け取りました、永野勇気と申します。

日頃は山田さんと同じく、スクールソーシャルワーカーとして働くかたわら、さいたま市内にあるNPO法人さいたまユースサポートネットという団体で仕事をしています。

NPO法人さいたまユースサポートネット(以下、さいたまユース)は、「地域のなかで困難を抱えた子ども・若者の居場所づくり」を目的として、2011年に発足しました。当初は、高校を中退しそうな高校生たちや、不登校の子どもたちが集まり、勉強や一緒に遊んで過ごす小さなグループ活動でしたが、そこから徐々に活動が広がっていき、現在では行政からの委託や寄付などを活用して、さまざまな場を運営しています。

具体的な活動としては、中高生から30代までの「子ども・若者」を対象に、気軽に交流や相談できる居場所を開いたり、勉強を支援したり、仕事に踏み出すのをお手伝いしたり等々、年代に合わせてさまざま支援活動を行っています(詳しくはホームページをご覧ください→ https://saitamayouthnet.org

さいたまユースには、「たまり場」という居場所活動があります。これは団体ができた時から今現在まで続いている活動で、言わば、さいたまユースの「原点」です。僕は、大学生時代に縁あって、この「たまり場」の立ち上げから関わらせてもらっていました。その意味で、たまり場は僕自身にとっても対人援助業界に足を踏み入れるきっかけであり、立ち返るべき「原点」でもあります。以下では、そんな「たまり場」について紹介したいと思います。

1.たまり場とは

「たまり場」は、隔週土曜日、月に2回の頻度で、地域のコミュニティセンターや社会福祉協議会の施設をお借りして、実施しています(※1)。毎回必ず二つの部屋を借りて、片方の部屋を「たまりん」(ゲームや会話などワイワイしていい部屋)、もう片方を「まなびん」(勉強など、静かに過ごせる部屋)と、それぞれに愛称をつけて呼んでいます。

団体の自主財源でやっている事業ということもあり、住んでいる地域や年齢、所属など、参加するにあたっての基準はとくにありません。基本的には誰でも参加できます。もちろん、団体として「子ども若者の〜」と掲げているので、半分くらいは中高生年代の子どもたちですが、もう半分は20代から30代後半までの「若者」、地域で暮らしている40代から50代の壮年層、60代のシニア層まで多世代にわたって参加してくれています。

参加している人たちの背景や目的もさまざまです。中学校や高校に行けず不登校状態にある子ども、高校を中退して働き始めようかと悩んでいる若者、家が居づらくて逃げ場を求める青年、障害関連の支援機関や病院から紹介されてやってきた人、ただ将棋仲間と会うためにやってくる青年、毎回友人と連れ立ってダラダラしている高校生、近所に住んでいるおじいちゃん、何かボランティアがしたいと思いやってきたおじさん、教育系の大学に通う大学生等々…。あげればキリがありませんが、本当に多様な人がたまり場には集まっていて、ある種「カオス」な空間になっています。

こういった「カオス」は、これまでの経過の中で自然に生まれていったものでもありますが、他方で「あえて」残しているところでもあります。それには、たまり場において大切にしている「3つの原則」--「誰でも来られる」「何をしても/しなくてもよい」「誰もがメンバー」が関係しています。

※1  元々は週に一回のペースで開催していました。現在は、コロナ禍の影響等もあり、この頻度になっています。

2.たまり場をかたちづくる「3つの原則」

「誰でも来られる」というのは、たまり場において、年齢や性別、国籍、経済状況、抱えている背景などで、対象を区切ったりしないこと、つまりは、どんな人であっても居てよい場所だということです。「居場所づくり」の実践は、福祉や教育の分野においては30年前頃から行われており、その結果、私的にも公的にもさまざまな形で居場所支援に近い場が作られていきました。しかし、全国に広がった居場所は、大抵の場合「不登校であること」や「精神疾患を抱えていること」「障害を抱えていること」など、対象が区切られています。もちろん、区切ることも大事であり、それによって参加者にとって安心できる場づくりができるということがあります(※2)。ただ、やはりそれだけだと、居場所を求めているのに、制度や仕組みの「狭間」にこぼれ落ち、孤立してしまう人が出てしまうのではないか。そんな思いから、たまり場においては「誰でも来られる」ということを掲げています。

※2 たとえば、不登校当事者のピア(=仲間)グループなどがそうです。「同じ体験を共有している人々」という区切りがあるからこそ、安心してそこに居ることや、自分のことを話したりできます。

二つ目の「何をしても/しなくてもよい」というのは、まずひとつとして、たまり場には、来たからには「交流に参加しなければいけない」とか「何か勉強すべき」といった、「こなすべきタスク」がありません。本当にボーッと座ってるだけでもいい。メンバーのなかには「まなびん」の部屋でひたすらマンガだけ読んで帰っていく人や、バイト前の時間潰しと言ってすぐに帰る人もいます。面白いのは、そうやって出入りしていくうちに、自然とメンバーどうしが顔見知りになっていくことです。名前は分からなくても、「いつも新聞読みに来てる人ですよね?」「よくここで寝てますよね?」といった形で、ふとした瞬間に会話が始まったりするのです。

もう一つの意味は、誰かを脅かしたり、傷つけたりしない限り、どのように過ごしても良いということです。たまり場には、明示はされていませんが、「この指止まれシステム」とでも呼べるような仕組みがあります。いつもたまり場が始まるとすぐに、誰かしらメンバーが「ウノやる人ー!」とか「外で遊ぶよー!」と声をかけて回っています。時には「企画書」というものをたまり場内に設置して、季節ごとにやってみたいイベントを考えてもらったりします。その結果、遠くの市民公園まで遠足をしたり、キャンプをしてみたり、クリスマスやハロウィンにはバンドを組んで演奏をしてみたり等々、メンバー発信で実現したイベントが多くあります。なかには、やりたいことがあっても、人が集まるかどうか不安で、「この指止まれ」ができないメンバーもいます。そんな時には、企画が得意なメンバーや、運営スタッフが一緒に考えてくれます。

三つ目の「誰もがメンバー」というのは、たまり場の一番の特徴かもしれません。たまり場には、日々新しい人が出入りしているのですが、みな最初は「ボランティアがしたくて」とか、「利用したくて」ということでやって来ます。つまり、「ボランティア」と「利用者」という形で分かれています。しかし、たまり場においては、この区分を取っ払って、みな「メンバー」という呼び方をしています。このことを説明すると、とりわけボランティアを希望して来た方はたいてい戸惑います。場を見回すと、利用希望の人も、ボランティア希望の人も、みんな「ごった煮」状態で過ごしているからです。しばしば「誰のお手伝いをすればいいですか?」「勉強させなくていいんですか?」等々聞かれるので、スタッフとしては、とにかく「一緒に過ごしてください」といったことを伝えています。

なぜこのような原則ができたかというと、一つには、もともと団体理念として「支援-被支援の垣根を越えたコミュニティづくり」というものが掲げられていたからです。しかし、それよりも本質的なのは、開設初期より、メンバーたち自身からこういった場にしたいという声が出ていたことにあります。

3.たまり場の「かたち」ができあがるまで

実は、たまり場が始まったばかりの頃は、「利用者」と「ボランティア」という区別を登録の時点で行っていました。初期はまだ「不登校の子どもたちの相談」や「孤立を防止する居場所づくり」、あるいは「高校中退を防止するための学習支援」といった、“支援臭”のある場づくりをしていたのです。しかし、活動をしている中で、参加している中高生たちや若者たちから、「自分だってボランティアのつもりで来ている。支援されに来ているわけじゃない」といった声や、「ボランティアって言ったって、ただの大学生じゃん。年下に偉そうにされたくない」といった、かなり率直な声が聞こえて来るようになりました。また、同時に、ボランティアの側からも「来ている人が何に困っているか分からない」とか、「こんなに元気に過ごしているのに、支援する意味はあるの?」といった声もありました。

そんな険悪な雰囲気に悩んだ運営スタッフは、一度、参加者のみんなを集めて、話し合いをすることにしました。テーマはずばり、「たまり場をどのような場所にしたいか」というものです。開設当初の目的や理念は残しつつも、一度ゼロベースから、みな対等な立場で「たまり場」について考えようと試みたわけです。

そこでは、想像した以上に活発な意見が交わされました。どの立場の参加者からも、「こんな場所にしたい」という声が出されたのです。

まず、ある通信制高校生からは「自分たちには放課後のような時間がない。放課後になんとなく、だべって過ごす、そんな場所が欲しい」といった意見が出されました。また、他の支援機関から紹介されてやってきた青年たちからは、「ここでは、こなすべきタスクが押し付けられないのが良い」という意見や、「どこか定期的に出かける場所があるってだけでも、親に示しがつく」といった意見が語られました。

ある中学生からは、「“変な人”がたくさんいておもしろい!」という声もありました(もちろん、「変な人」は、その子にとって肯定的な意味です)。ボランティア希望で来ていた大学生からは、「ギャルっぽい子も、真面目そうな子も、大人も普通に同じ空間にいるっていうのがすごい」という意見も出ました。

話し合いのなかで、何より全員が一致して感じていたのが、「ボランティアと利用者って分けるのが、なんだか対等じゃない気がする」ということでした。ある高校生は、「別に支援して欲しいわけじゃない。一緒に話をしたり、ゲームして過ごしたいだけ」ということを言いました。

これらの話し合いの結果生まれたのが、先に述べた「3つの原則」です。すなわち、「放課後にだべる場所」は『何をしても/しなくてもよい』になり、「変な人がたくさんいておもしろい!」は『誰でも来られる』に、そして、「対等な関係」は『誰もがメンバー』になりました。

このように、メンバーたちとのさまざまな対話を経て、今現在の「たまり場」のかたちは出来上がっています。

4.最後に--「居場所」の魅力について

僕自身は、たまり場での経験から「居場所づくり」というものに関心をもち、今ではさいたまユースの活動以外にも、地域で自主的に中高生年代の子どもたちの居場所活動をしています。これらの活動のなかで感じる「居場所」の最大の魅力は、何より「安心してグダグダできる場所であること」だと思います。「グダグダ」という言葉には「何もせず、時間を浪費している」といったニュアンスがあるので、もしかすると否定的な意味に聞こえてしまうかもしれません。しかし、誤解を恐れずに言えば、むしろそのように「安心して時間を浪費できる場」こそが、この社会において、いま必要なんじゃないかと僕は思っています。なぜなら、日々生きづらさを抱えている子ども・若者たち、あるいはその家族と関わっていると、かれらが「未来」や「将来」に向けて常に追い立てられ、その結果「いま在る自分」というものを否定し続けることになっていると感じるからです。

「自分は人より遅れてしまっている。このままじゃいけない。何かしないといけない。でも何をすればいいのだろう…」

こんな風に、気持ちだけが急いて、がんじがらめになっている。

あるいは、

「自分はダメになってしまった。置いていかれてしまった。何をしても追いつけない。もう手遅れだ…」

こんな風に、自分を否定し尽くしてしまう。

「未来に追い立てられる」なかで、「いま、ここにある自分」がどこまでも欠落した者であるかのように見えてしまう。遅れたものかのように思えてしまう。だから、なんとか埋めようと、取り返そうと、焦ってしまう。それでも、空虚さは消えなくて、自分が嫌で嫌で仕方なくなる…。僕が出会ってきた人々に限らず、こんな悪循環の中で生きている子ども・若者たちは、いまこの社会に結構たくさんいるのではないかと思います。

正直、僕らのような団体が一つや二つ、場をつくったくらいで、かれらの苦しい気持ちが簡単に消えるなんてことはないと思います。ただそれでも、その苦しさを少しでも和らげたり、空虚さをやり過ごせる、くらいの力はあるんじゃないかと、僕は信じます。

本コラムの2回目で、根本真紀さんが自身の体験をもとに、人生において「ウロウロすること」の大切さについて書かれていました。僕はそれに、「グダグダできること」の大切さも付け加えたいと思います。「未来」や「将来」は、追い立てられながらたどり着かなければいけない場所ではありません。ウロウロしながら、グダグダしながら、自分のペースでひとつひとつ「いま」を積み上げていくうちに、「気がつけばたどり着いているもの」です。

僕たち支援者の仕事は、そんなひとつひとつの「いま」を、少しでも楽しく、いきいきと過ごせるようお手伝いすること。あるいは、いっそのこと、一緒に「ウロウロ」したり、「グダグダ」して過ごすこと。そんな風に僕は考えています。