しにたい文学

50代・男性


オフィスを見渡すと、皆淡々と働いている。特別うかれている人もいなければ、机に突っ伏している人もいない。大抵の人はパソコンのモニターか机の上の書類にじっと目を注いでいる。この人たちは、「しにたい」と思わないのだろうか? そんな暇はないのだろうか?

僕がしにたいと思うのは暇だからか? 脳内伝達物質の減少のせいか? 心が弱いのか? ああ、もう疲れたな。運動は楽しいし、そこで人と繋がると嬉しい。今はその時間のために生きている。でも、やっぱり、しょっちゅう、しにたいと思う。その言葉が浮かんできて、口にし、パソコンに打ち、検索してしまう。人間として、ダメなのだろうか?

誰かに相談すると楽になるのか? たまに妻には言うが、あまりよい解決方法にはならないような気がする。不快にさせて、ただただ心配を増幅させてしまうのではないか? と言って、友人にも話しづらい。父にも話しづらい。姉のような従姉なら聞いてくれるだろう。でも、そのレスポンスで僕の未来が明るくなるとも思えない。共感はしてくれるだろうが。そういう意味では、今求めているのは、単なる共感ではないのだろう。

何らかの気付きが欲しいのかもしれない。自分の視点や世界観を変える気付き。フィットネスではそれがしばしば得られるので、今のめり込んでいる。でも、よい気付きと同じくらい、不安も増幅する。期待が生まれると、その反対の心配も増える。誠に厄介だ。でも、人生というのはそういうものかもしれない。プラマイは結局ゼロ。悪くなったらよくなるし、よくなったら悪くなる。禍福はあざなえる縄のごとし。と思えばよいのか?

ただ思うまま、自分を信じて生きていくしかないのだろう。人の言葉に耳を傾けつつ、それに振り回されつつも、自分の心と体の声を聞く努力を忘れず、前に動いていく時間を感じ続ける。時間は決して戻らない。先は開けている。閉じてはいない。そう信じて。実際そうだから。悪くなるかもしれないということを含めて、時間は未知数なのだ。時間という軸から自分の人生を考えてみるのも面白いかも。

人間なんてちっちゃい存在だ。何したって、たいしたことない。ひとりの人間がしにたいと思うかどうかなんて、宇宙全体から見れば、どうでもよいことなのだ。だから、そんなことで悩むのも変な話だ。しにたいと思うなら、そう思えばよい。実際にはしなないほうがよいけれど。本当のところ、どうしたいのだろう? 自分は何を求めているのだろう? そもそも何か求めているものがあって、それが手に入れば、この問題は解決するのだろうか?

しにたいと思うことが多くて、ほかのことが手につかない。とにかくそう思っているときの気持ちを整理したい。だからこんな文章を書いている。支離滅裂だと思う。でも、必要な作業だ。まだ、こういうことをするだけのエネルギーはあるという確認にはなる。書いたことを読み返して、自分を客観視しようという気持ちもある。結果は無残だが。この文章は誰かに見せられるだろうか? カウンセラーの先生には見てもらえるかもしれない。先生が休職中でなければなあ。あの人以外には、見せたくない。妻に見てもらいたい気もするが、見せるのは気の毒なようでもある。自分で抱えるしかないのか? こう書き出したことで満足するしかないのか?

皮肉なことに、これは「文学」かもしれない。今の心理状態を主観的かつ客観的にとらえて形にしてみようとしている。文学の力。言葉の力。今、僕を支えているのは、それらかもしれない。

感想1

文章、読ませてもらいました。読んで、他の経験談とは異なった感覚を持ちました。ご自身は「文学」かもしれないとおっしゃっているので考えてみたのですが、私には何が文学なのか検討するための引き出しがなく、わかりませんでした。だから自分なりにこれは何だろう?と考えてみたのですが、「一つの作品」という表現が浮かびました。
自問自答の作品なのですが、誰かに問いかけているようにも感じました。
また、葛藤にあふれているけれど、どこか明快で答えを持っているようにも思いました。
そして、とても自然でもありながら、不可解でもあり、さらには日常の風景が見えてくるように日常的でもあり、しにたいという観念の世界も見えてくる非日常も感じました。

そこから、生きることで起こることのすべてに裏と表、相反する概念があるように見えて、実はそれらは常につながっていていつも行ったり来たりするものであるという道理を勝手に読み取りました。

死にトリにやってくるみなさんが表現する「しにたい」という言葉は書いてしまえば同じ言葉ですが、人それぞれエッセンスは異なると思っています。私はあなたの文章を読んで、みなさんが生きてきたすべてが何かによって抽出されてこぼれ落ちたしずくを想像しました。そのしずくに名前を付けるとしたら「しにたい」なのではないか?というぼんやりとしたイメージが浮かびました。普段、リアリストの私がこうしたイメージを抱くということはひょっとしたら文学的なのかもしれないと思っています。

感想2

まず、これまでの他の経験談とは少し違う文章だなと感じました。それは、過去のことよりも未来に目を向けて書かれていたからだろうと思います。
わたしたちは「死にたい」気持ちになるとき、未来のことを考え、語ることが難しくなるような気がします。だから、この経験談は、私に新鮮な見方を与えてくれそうです。

何かを待っている、掴もうとしている様子を想像しながら読みました。
五感を研ぎ澄まし、心を開いて、何かを感じ取ろうと機会を窺っているような…

気付きがほしいのかもしれない、と書かれていました。
それに気付くことができたら、死にたい気持ちはどう変わるのだろう?と気になりました。
あるいは、気付きたい何かは、もしかしたら、既にあなたの中にあるのかもしれない…と考えてしまいました。

「不安」「心配」という気持ちも書かれていました。不安や心配が重なって、耐えきれず、「死にたい」に変換されているのかもしれないと考えました。
もしそうだとしたら、不安や心配そのものを減らす、または今よりも対処しやすくなるような、考え方、価値観に気付きたいのかな?と考えました。
不安や心配といった感情は、大きすぎたり、手付かずのままにしていると、そのことで頭がいっぱいになって落ち着かなくなってしまいそうです。しかし、人は不安や心配を感じることによって、危険な目に遭うことや、他人を攻撃してしまうことを回避できることもあると思います。
だから、不安や心配はあっても、「死にたい」に直結しないような、ご自身なりの対処法が見つかればよいのかなぁと考えました。

また、これは想像ですが、「自分の問題を解決しなければならない」という考えが強くなっていて、そのことに疲れてしまっているようにも見えました。
自分の問題を解決するステージから降りて、少し違った方針で、時間を過ごしたいのかなぁと思いました。

最後に「文章を書くこと」について書かれていました。私は、文章は書いても書いても満足いかないものなのかもしれない、という気がします。まだ満足いかない、という気持ちが、次の「書く」作業に繋がっているようにも思います。

この文章は、心が崩れてしまいそうな中で、あなたが辛うじて生きるために必要な作業に取り組む過程で生まれたということが分かりました。文学は、文学を生み出そうとして生まれる作品というよりも、生き延びる手段であったり、その人がその瞬間を生きた副産物なのかもしれないと考えさせられました。

お返事

感想をありがとうございます。
私が意図しない部分まで深く読み込んでいただき、またそれを明確な言葉で伝えていただき、感謝しております。

「死にトリ」にあっては、妙な文章でしたでしょうか。
私にとっては、生きることを文字で表現することが、「文学」に当たるのかなと思っています。書けばよかったですね。
「文学」の定義は人それぞれだと思いたいので、あえて表現しませんでした。

この文章を書いたときは、思い詰めていて、とにかく書かずにはいられない心境でした。
今、読み返すと、滅茶苦茶な文章のような気がします。
でも、その時はこれが正直な気持ち、考えでした。
それをそのまま書き留めておきたくて、書きました。
書けば、何かが変わるかもしれないと思いまして。

今は少し落ち着いています。
困ったら、また言葉の力を借りようと思います。