適材適所を切望する


大阪府・40代・女性


 両親から、また両親がその扱いなので兄弟からも、転校先によっては2年ほど集落全体からも、見た目に動きに歩き方に、声に喋り方、好みに感覚に、感情の全てを否定されて育ちました。

 ただ否定の仕方がかなり独特で、殴られたり怒鳴られたりなどは無く、笑顔で優しく、時に涙もこぼして嘆きながら、異常なほどのダメ人間に生まれ付いてしまった我が子の、面倒を見てあげなきゃ、と当たり前のように思い込まれて接されていました。

 ちょっとしゃべっても動いても、変だと笑われます。かわいそうにと泣かれます。

 これが好きだと選んだものに、面白いと笑ったものは、そんなのを気に入るなんておかしいと悲しまれます。好きなものが家族と一致すれば、「あら嫌だ。あんたと一緒になるなんて」と気持ち悪がられます。

 怒っても「怒る理由なんか無いでしょ。あんたがおかしいんだから」と笑われます。

 泣いても「泣く理由なんか無いでしょ。あんたがおかしいんだから」と怒られます。

 実際に生まれ付き身体が弱かったのですが、その原因には気付かれず、一人で部屋にこもるのが異常に好きな怠け者だと言われていましたし、自分でもその通りだと思い込んでいました。生まれ付きのダメ人間なのだから、世の中が正しく見えていない。家族は本当の事を教えてくれているのだから、素直に受け止め切れないのは心が汚い。いくら勉強が出来て成績が良くなっても、人間として根本的に頭が悪いのだと。

 他人にも気に入られるわけがないから、世の中には出られない。出てもまともに働けない。就職も結婚も出来ないだろう。出来たとしてもその就職先や結婚相手は、おかしな会社におかしな人達だろう。すぐ潰れる会社だろうし、騙されて犯罪などに巻き込まれるだろう。残念だが人生そのものを諦めろ、それがお前の現実だ、と笑顔で断言され続けてきました。私のようなクズは雇ってもらえるだけでも有難いので、どんな条件でもしがみ付いてでも働き続けて、奨学金を返し終え、年老いた両親が暮らせるような家を用意出来る現金を残せたなら、一人でひっそりと、出来るだけ迷惑を掛けない形で死ぬ事が唯一の目標でした。私はクズなのだから、自分自身の目標なんか持ってはいけないし、達成出来るわけがないから持ったところで無駄だと、本気で本当に思い込んでいました。

 結果大学を卒業し、就職が出来てみると、親が思っていたよりも私は良い人材だったようで、出張メンバーに選ばれ実家から離れ、気が合う相手と出会い結婚でき、結構仲良く十年も過ごした現在も、自分の一部はいまだに自分を信用出来ていません。

 自分はクズなのだから本当の姿が見えていないのだと、本当は皆自分に迷惑して不快に思っているのだから、結婚相手の役にも充分には立てておらず、私よりももっとまっとうに生きていける世間の人々のための資源を奪い取るだけのゴミなのだから、今すぐにでも周りのために世の中のために、死を選ぶのが正しい、それが理解できないのは異常だと、いつまでも自分をとことんまで責め罵ってきます。実際にバンバン頭を殴り、気を失いかけるほど強めに首を絞めてきます。

 今現在の私は明らかに幸せで、今の家族や友人とは本当に気が合っていて不満も無いので、私を殴ってくる別人格について相談のしようがありません。身近な人は驚くでしょうし悲しむでしょう。他人に相談したとしても、今が幸せなら良いじゃない、で終わってしまうでしょう。

 もう過去にとらわれる必要が無い事は、自分でも分かっていて、いい加減にしてくれと自分自身が思っています。誰よりも自分が自分を信用できないし、自分が気持ち悪いし恐ろしい。結果自分が異常だと認めるしか他に仕様が無い感じです。

 両親は九州の中でも海から遠く、火山に近い土地で実りも少ない痩せた農村に生まれ育ち、幼馴染み同士で結婚しています。父は長男、母は末娘ですが村では評判の美人で、苦しい環境でも優遇を受けてきた人達なので、冷遇される者の気持ちが分かりません。周囲より劣っている者は冷遇されて当然だと思い込んでいます。

 女性は家族のために、言われなくとも周囲の人達の気持ちを汲み取れて、明るく元気に働くのが「正常」であり、家族が求めるだけの家事が満足にこなせなければ「異常」とされています(ただし容姿に恵まれていれば求められる家事の完成度は低くなる)。それが「当たり前」とされていた地域の出身です。

 両親の「当たり前」は理解します。ですがそれは、その土地に暮らして行けるだけの家と土地を確保した状態においての「当たり前」なんです。両親自体が土地を離れ、核家族となって転勤を続けていた状態で、保ち続けていられる「当たり前」ではないんです。

 ですが両親に訴えたところで、生まれた時からの「当たり前」を覆す事は出来ないでしょう。私自身が理解して済ませるしかありません。ただ出来る事なら私は、両親の危篤でもない限り、実家とは距離を取りたいし、故郷に足を踏み入れたくもない。両親は愛情たっぷりに私を育てたと思い込んでいるのですが、実家に帰らなくては、連絡を取らなくては、と考えた時点で、両親の愛情を素直に受け止めきれない自分は異常だと、自分を殴ってくる人格に引きずられてしまいます。

 未だに私の結婚相手に対して、「よっぽどの変わり者で助かった」とか「満足な家事をしてもらえない相手がかわいそう」とか、「いつか離婚されるから覚悟しておきなさい」とか言っています。帰りたいわけがないでしょう。言われた事に腹立たしさを、結婚相手に伝える気にもなれないでしょう。

 家や故郷のありがたさ、といった話を聞く度に、人知れず背筋を凍らせています。しかし私の育った環境が特殊だったのだから仕方が無いとやり過ごしています。

 こうした機会に自分の感覚を文章としてまとめ切れた事は、かなり状態を良くしてくれた気がします。特殊な経験だとは思いますが、誰かの参考になれば幸いです。

感想1

経験談を読んだ時に、まず私は「適材適所を切望する」というタイトルが目にとまり、思わず「適材適所」と「切望」の意味を調べました。適材適所は「その人の能力・性質によくあてはまる地位や任務を与えること。」、切望は「心から強く望むこと。」と出てきました。その言葉の意味を踏まえて、経験談の内容を読むと、あなたの育ってきた家庭はあなたに対して否定的な評価の言葉がとても多かったと私は感じます。長年言われ続けたことで、あなたの内側に自分を殴ってくる人格が形成されたのかなと想像しています。そして「適材適所を切望する」というタイトルには「自分が自分らしくいられる場所に身を置いて生活したい」という強い願いが込められているのかなと私は考えていました。(本当はもう少し自分の中でしっくりくる表現があるとは思うのですが、その言葉をうまく出力できなかったので、この表現になりました。)

『「両親の「当たり前」は理解します。ですがそれは、その土地に暮らして行けるだけの家と土地を確保した状態においての「当たり前」なんです。両親自体が土地を離れ、核家族となって転勤を続けていた状態で、保ち続けていられる「当たり前」ではないんです。』

私は、この文章を読んで「当たり前」ってなんだろうとすごく考えました。ある人にとっての「当たり前」と別の人にとっての「当たり前」は違うということが「当たり前」なんじゃないかと思いました。でも、私たちは無意識のうちに自分と他者の「当たり前は同じはずだ」と思い込んでしまっていると思います。そのことについて改めてすごく考えさせられた言葉でした。また、「当たり前」についてあなたとお話してみたい気持ちにもなりました。
経験談の投稿ありがとうございます。

感想2

経験談の投稿ありがとうございます。経験談を読ませていただいて、「両親の当たり前」が長い時間あなたを苦しめていることが伝わりました。「両親の当たり前」について、私自身日頃から色々と考えさせられることがあるので、そのことをお伝えしたいと思います。はじめは、みな誰しも無知の状態なので、家庭における生活様式、価値観、ルールが自然に身について、それがベースになると思います。ですが、身体や心が成長するにつれて、自我が芽生え、自分の感情、気持ちや考えが出てきます。たとえ家族であってもあなたの感情、気持ちや思いが尊重されるべきであるのに、それ自体が否定され続けた経験は、存在そのものが否定されていると捉えても仕方ないと強く感じました。私自身も否定され、尊重されない環境で育ちました。なので、私も夢のような話かもしれないと思っているのですが、たとえ家族の中で考えや感じ方が異なったとしても、否定されることは絶対あってはならず、なぜそう考えるのかとか、行動の背景にあるものは何なのか等話合いをする、意見を言い合える環境が大切なのだと思います。ですが、現状は「子どもは親の価値観に従うのが当たり前」という風潮、子どもの権利・意思が尊重されない経験を多くの人がしているよう感じます。経験談にある「生まれた時からの当たり前を覆す事は、出来ないでしょう。私自身が理解して済ませるしかありません。」というところに、あなたが両親に対して多くのことを諦め、我慢してきたことが伝わりました。「自分の一部は、いまだに自分を信用できていない。」それは、家庭の中で自己否定をされ続けてきた後遺症なのではないかと思い、癒えていない傷を抱えられているのだと思いました。今回、こうやって経験談で語ってもらえたように、傷ついたことを誰かと語ることやその経験を認めてもらうことが、傷を癒すことにつながるのでは?と私自身は考えているので、これからも死にトリの様々なコンテンツを使いながら、語り続けてほしいと思いました。最後に…タイトルである「適材適所を切望する」というところからあなた自身は、他者の多様性を認め、個々人の長所、短所を受容しつつ、強みを生かすことができる方なのではないかと思いました。

お返事

まず「適材適所を切望する」というタイトルを付けたのは、私だけではなく可能な限り多くの人が、その状態にあってほしいと思ったからです。
と言いますのも私の両親自体が、土地や一族の「当たり前」に縛られて育ったため、私を否定する事に何の疑問も感じないようでしたし、それこそが親の愛と思っているようでしたし、今更他の考え方も受け入れ切れないようです。
それが無ければ父親とは、結構趣味も合い親しく話せたはずなのですが、「父親たるもの女子供とまともに相手をしてはいけない」と、父親自体が思い込んでいる。
何よりも母親が、私の事を「生まれながらのダメな子で自分には治し切れない」とさえ思い込まなければ、少しでも「まともな子」に、せめて「普通の子」に思えていれば、一家皆がそこそこ普通に、母親も今よりはしあわせに過ごせていたはずです。
正直に言いまして私には、そのあたりがバカバカしい。
「有益かつ効率の良い者」しか、長く集団の中に求めてこなかっただけです。おかげで「維持管理をひたむきに続け切れた者」が、あちこちで生きていけなくなっている。実際はただそれだけの事を、「自分達は真面目に伝統を重んじてきた」と思い込んでいたい。自分達に非があるとは、それは誰だって思いたくないでしょう。だから劣って見える者を見つけ出して、集団で押し付ける。
押し付けられた側として苦痛ではありましたが、気持ちは理解出来ます。私も「普通の子」として育ったら、普通に「押し付ける」側に回っていたはずです。

今となっては自分が、「押し付ける」側に入れなくて良かった。今後もなるべくなら押し付けようとする流れに気付けるように、流れに入らないように、機会があれば誰かを引きずり出せる状況にいたいものですが、簡単ではないと思います。毎日毎時間が瀬戸際です。

経験談を書いた事で、最も嫌だった点に気付いたり、書きたかった事を後から思い出したりして、「とりコミュ」でもしばらく発言していましたが、どうも経験に感覚が独特なのか、言葉選びに言い回しが奇妙なものになるようで、読んでくれた方に返事をくれた方を困らせてしまっている気がします。不愉快にさせた方もいるでしょう。申し訳ないのですが、致し方もないと思っています。

今現在はかなり調子が良い状態ですが、「自分を殺したいほど憎んでいる自分」との共存は、実際のところ言葉に変えて打ち明けて想像してもらえる以上に、真剣で過酷です。理解し合えなくて当然、むしろ理解し合えないところに、人間総体としての面白みを感じるしかないような気がします。