存在を消さないで

北海道・22歳・女性

Part1:幼少期~高校時代


私は、機能不全家庭で育った。
両親は、私が小学生の時に裁判離婚をした。親権争いになり、たびたび片方の親に連れていかれたり、急に転校したりした。小学校は四つ行った。当時の面前DVの経験が、複雑性PTSDの最大の要因になっていると思う。
一般にトラウマによる症状は、受けたトラウマ経験の性質と、もともと個人の持っている特性との組み合わせによって、人それぞれ違ってくるのだと思う。私の場合、主な症状は場面緘黙症と拒食症だった。あとはストレス性高熱が出たりもした。
これは、単に「両親の相性が悪かったね」という問題ではない。祖父母や叔父・叔母たちも含めて、歪められた家庭にいたと思う。
大人になってから理解したけど、多くのDVの背景には社会的な男女差別(ジェンダー、性別役割分業の価値観)があると思う。また、家庭の内側に子育てや生活の全責任を閉じ込め、何でも「自己責任」「家族の責任」として、家庭を孤立無援にさせるような社会の風潮と構造があると思う。
そのような社会の風潮や構造を変えるためには、性別とか血縁とか、出身とか学歴とか関係なく、みんなで協力していくしかないと思う。でも、根本的な大問題として、私たちは協力することがほとんどできなくなっていると思う。人間は協力しあうことなしに生きることができない存在として生まれてくるにもかかわらず、その当たり前のことが忘れ去られている。みんなどうやって助け合えばよいのか分からない、または助け合おうとも思えない。だから、孤立して誰にも助けてもらえないことによる欲求不満は家庭の中に閉じ込められ、弱い者への暴力となって現れるのだと思う。

実家で、家庭が歪んでいることに気づき、悩み苦しんでいたのは、私一人だけだった。裁判の判決で母が親権者になったから、母子家庭になった。シェルターに逃げて、母子生活支援施設、団地と移り住んだ。
母方の親族らは、自分たちは仲の良い、楽しい親族だと心から信じているようだった。しかし、実際にはずっと共依存しているようにしか見えなかった。それを近くで見ているだけで、すごく気持ち悪かったし、恐ろしかった。物を買ってもらうのも、全然嬉しくなかった。モノ・カネで人を釣って、支配しようとされるのが苦痛だった。「これだけ必死で子どものために尽くしているのだから、私の気に入る子どもにならなければ許さない。私の要求から外れた子どもに存在価値はない」と、親に暗黙に言われているのと同じだった。
でも、そんなことを言って反発したら自分がめちゃくちゃな目に遭うに違いないから、積極的には反発しなかった。ただ、できるだけ自分を保つために、家族・親戚を避けた。人を積極的に傷つけることはしたくないから、全力で避けるしかなかった。そうすると、親から人格否定するような言葉と態度で何度も怒られた。私は「普通の人間ではない」「異常な人間」だと言われ続けた。
こんな家庭環境だったから、できる限り早く家を出て、一人暮らしをしたかった。小学5年生の時から、16歳になったら家を出ようと決めていた。小学生の自分にとって「16歳以上は大人」で、自由になれるはずだと思っていた。

私は生き延びるために、「良い子」を演じ続けないといけなかった。朝も昼も夜も、親を怒らせないように気を付けていた。とにかく親に負担をかけてはいけない、親を助けなければならないという強迫観念に襲われていた。母は父から暴力を受けていた(そのことは後から母に聞いた)ので、実際に傷ついていた。母は人間不信に陥っていて、社会から切り離され、助けてくれる人もほとんどいない状況で、長すぎる裁判に疲れ切って、仕事は残業もあり大変で倒れる寸前なのが、当時の自分には察せられた。
私はそんな母と、あまり状況を理解していない弟に挟まれ、常に気を遣わないといけなかった。だから、本当に思っていることを家族に話したことはない。本音に近いことを話してみたことも何度もあるけど、結局伝わらないのだということが分かった。
抑圧的な環境で育って、場面緘黙症だったから、学校でも話せなかった。当時の学校では、場面緘黙症のことを知っている先生はいなかった。大学生になってからネットで調べて、緘黙のことを知った。なぜ喋れなかったのか、やっと分かった。もっと早く知りたかった。話せないことを、親にも先生にもたくさん怒られたり責められたりした。無理やりみんなの前で発表させられたりして、できなかったら「みんな困ってるんですけど」という圧力をかけられた。「喋れるくせに無視する」と言われた。
誰一人、私のことを分かってくれなかった。本当は普通の人間のはずなのに、おかしい人だと思われるから、いつでも周りの目に怯えていた。常に心を殺され続けてきた。死にながら生きてきたような感じ。

それほど苦しかったので、そのまま精神的な病気を抱えず、何の問題もなく大人になれる気はしなかった。そのうち、自分と周りの全てが崩れてしまうだろうなと直感していた。毎日ボロボロに疲れた心身で、辛くて死にそうで、とりあえず泣きたかった。でも頼れる先は全くない。泣ける場所はどこにもなかった。強迫観念は止まらない。家事をこなしながら、中学時代は進学塾と習い事に通い、受験競争に煽られ、分刻みのスケジュールに追われていた。活動量のわりに、睡眠も栄養も不足気味だった。
そもそも宿題は、先生が自分の担当教科のことだけ考えて、成績評価をつけるという「お仕事」のために出してくるものだと知っていた。大人たちに無理なことをさせられているのは分かっていた。でも、「良い子」でいないといけなかったので、学校や塾をやめるわけにもいかない。家出して行く所もないから、どうしようもなかった。家出なんかしたところで、警察に連れ戻され、親にも先生にも「問題児」扱いされ、説教され、ますます監視されるようになるだけなのは目に見えていた。しかも、「優等生」のラベルを貼られた子がいきなり家出したら、大ごとにされそうだし、親は気が狂ってどんな恐ろしいことをするか分からなかった。だから絶対に逃げられなかった。それに、私は勉強が好きだったから、勉強させてもらえることは恵まれているとも思った。

そこで私がとった生存戦略は、気持ち悪いくらい巧妙だった。とにかく無理矢理にでも将来の夢や勉強上の目標を作り、それに依存することで生きた。目標依存。良い子になろうとすることでしか、自分をぎりぎり保って生きていくことができなかった。世間的に認められるような、高い目標を作り出し、それが本当の自分の望みだと言い聞かせて勉強漬けにしていれば、親にはあまり怒られずに済んだから。住んでいる都道府県で一番偏差値の高い公立高校を目指した。
本当は遊んでみたかった。遊んだことがなかった。でも、家事と勉強漬けにすることが、まだ最も安全に生きられる方法だった。当時の「夢」は、生存戦略の一部として作り上げる必要のあった、脆い幻想だった。
しかし、当時の私はまだ、親の暗黙の支配が自分をそこまで苦しめていることを、心を殺していることを、明確に自覚できていなかった。または、現実を直視しても解決方法はなく、耐えられなくなるだけだから、現実を無いことにしていただけかもしれない。
母親は「子ども第一で教育熱心な良い母親」を演じていた。私はそれが本当の母親だと信じていたし、だから家族のために尽くした。本当に見返りを求めずに、ただ家族が生き延びられるようにと思って涙をこらえた。でも実際は、自分が一番苦しんでいて、遂に壊れた。

高校は、それなりに有名な進学校だった。入学後すぐに、心身の調子がおかしくなった。自分でもどうしたらいいのか分からなかった。なぜか食欲が消えたようになくなり、何も起こっていないのにずっと悲しくて涙が出てきて、でも家や学校で泣くわけにいかないから、通学中にボロボロ泣きながら歩いた。そのときは、2週間くらいで元に戻った。謎の現象だなと思った。後から思えば、それは摂食障害の始まりだった。
摂食障害(拒食症)に気づいたのは、高2の冬。いきなり心療内科に連れていかれ、すぐに診断されて、明日から学校に行ってはいけない、いつ倒れてもおかしくないからと言われた。栄養剤(カロリーを摂るためのシロップのような飲み物)を出された。そこから、見えるものが変わったと思う。精神疾患についての知識もなかったので、始めは自分がどうなっているのか理解できなかった。びっくりする一方で、「こんなに苦しいのだから病気なのも当然だろう」という平然とした気持ちもあった。
入院待ちの2か月間は、家に閉じ込められた状態で、誰とも話さず、メールも返せなかった。ほとんど何も食べられなくなり、体重が極限まで減った。猛烈な身体のしんどさと、もう死ぬかもしれないという恐怖と悔しさ。地獄を知った。入院治療もありえないほど苦痛だった。ただ生きるだけのことが、こんなに難しくて辛いことがあっていいのだろうかと思った。想像したこともない苦しみだった。この経験を通して、この世界の残酷さを受け止められるようになった(なってしまった)。

Part2:大学時代~現在


大学時代も通院治療は続けたが、あまり効果はなかったと思う。やはり今の精神科医療には限界があると思った。医学的な体重管理に偏っていて、根本的な要因である生活環境を変えることは全くできなかったから。
ただ、大学時代の勉強、というか、学ぶことは楽しかった。受験勉強のような知識の詰め込みではなく、自由に学びたいことを追求できたから。大学は経済成長の道具に成り下がっていると言われているけど、まだなんとか学問の自由を保っているところもある。私はそれに多少は救われたと思っている。そこで社会の構造的な問題を知り、自分の経験も社会の病的現象の一部として捉えられるようになった。苦しかった経験を、誰かのせいにするのではなく、社会全体の連帯責任と見て、どう解決すればよいか考えられるようになった。「どうしてあなたたちは分かってくれないのか?」ではなく、「私たちはどうすればいいのか?」を考える習慣が付いた。

社会が個人を殺すのは、許されるべきではないと思う。そんな現状がある限り、私たちは怒るべきだし、泣くべきだと思っている。
でもそれと同時に、どんな個人も世界に赦され、誰かに愛され、社会に包摂されるべき存在だと思う。私たちは、どんなに多様な個性を持った者同士でも、無条件に愛することができる才能を持って生まれてくると思っている。その自然に与えられた心の可能性をありのまま発揮させ、皆が世界は愛に包まれていると信じられるような社会環境が創れたらいいなと思った。そのために何をどうすれば良いのか、限られた時間と資源のなかでも、できるだけ多角的に考えようとしたつもりだった。もちろん周りにそんなことを思って勉強している仲間はいなかったから、孤独だったけど。ただ現実には、生きることが難しい、どうしたら生きられるのか分からないと思う毎日だった。

在学中に、公務員試験や大学院の受験を考えたことはあった。自分にできることで、苦しんでいる人を一人でも助けられる仕事なら、儲からなくても、何でもやりたかった。知識は大事だけど、知っただけでは現実は動かないのだから、早く行動したかった。社会的なニーズと自分の人生を総合的に考えると、とにかく今は働いて経済的に自立して、家を出ることが最優先だと思った。まず自分が生きることが第一で、生きていなければ誰を守ることもできないと思ったから。
3回生の2月からは、世間に流されるように就職活動を始めた。それはつまり、学問を離れることだった。就活はものすごいスピードで進む。自尊心を支えていたはずの信念はすぐに崩された。愛なんて信頼なんて、昔の「夢」と同じように、幻想でしかなかったんだ。勝手にあると思っていただけ。そういう考えに行き着いてしまった。
就活では、どれくらい真実を理解しているかなど全く評価されない。大学の成績表を提出したら、良いですねと言いながら笑われた。要するに、真実を知らない子の方が、会社には都合が良いのだろう。特に、中途半端に学歴のある文系女子は避けられているのが肌で分かった。労働法や社会保障政策を勉強しましたなんて言う学生は、会社がいかに人権を踏みにじっているか理解するから都合が悪いということだと思った。そんな会社には入りたくもなかったけど。
でも、就職しなければ家を出られず、経済的にも生きていけないと思っていたから悩んだ。居場所がないと感じた。ゼミに行く以外はずっと一人でいた。社会に出ようとしたはずなのに、社会からどんどん隔離されていくのが辛くて拒食気味になっていた。好きだったゼミの先生さえも、早く内定を取れとうるさく言った。親には公務員試験を受けなかったことを何度も怒られた。
病みながらもなんとか卒業はできた。命を削る日々のなかで、入学し、学び、卒業した大学と別れた。本当は命を削りたくはなかったけど、自分で選んだ大学だったし、何も知らないまま生かされるよりはありがたかったと思う。

就職も決まらず卒業して、生きていく方法がなくなったから、オンラインで専門機関に相談した。そこでやっと、実家から離れた支援機関に繋がり、家を出て住める場所を提供してもらえた。数日で決断できた。そこへ行くしか、生きる手段がなかったから。何をするかは、行ってから考えることだと思っていた。
夏に引っ越して、全く知らない土地での生活が始まった。これまで強迫観念にまみれ、目標に依存し、全てが怖くて人間不信になっていたから、まずはそれらを手放すところからだと思った。人を信じる心を取り戻し、自然との、人との関係を結び直したいという意思を持って来た。自然から隔離された、冷たい都会の空間にも飽きていた。
引越して来てからしばらく、自分が「いない」感覚になった。自我を半分失ったような感じ。本当に自分は生きてきたのだろうか?今ここで生きているのだろうか?今いる場所は、これまでいた世界と同じ世界なのか?実感がなかった。その間は無気力・無感情だった。ただ呆然と、新しいものを見て「そんなものか」と思うだけで時間が通り過ぎた。
引越すまでの間は、行く当てもなく、病んでいた。23歳の間に死ねばいいと、本気で思った。とにかく、この先何年も生きていく気力はもう残っていないと感じた。20代になってから、そろそろ寿命ではないかと直感的に感じることが増えた。もう一生分苦しんだ。一生分以上泣いた。戻りたくもない。

学生時代までは、たくさん勉強して真理を知り、行動力をつければ、みんなが幸せに生きられる社会に近づけると愚直に信じていた。努力していればきっと良い未来があるような気がした。本当のことを理解して行動している人は、少数派でもそれなりにいて、協力できるのではないかと思った。きっと世界は変えられると思った。そうしなければ私たちは死んでいく。静かに殺されていく。何事もなかったかのように存在を否定され、この世から消し去られる。それがどうしても許せなくて、死にきれなくて、その思いが辛うじて生き延びるエネルギーになっていた。
今は、そんな考えにこだわらなくなった。もっと残酷な現実が見えるようになった。生きることに執着していたけれど、手放していいのだと気づいた。それは、自らの意思で死ぬことではない。自然の摂理に任せればいいということ。
いつでも、現実の惨さは、人間の想像を超えるものだと思う。人類がこれから何世代も続くか分からない。みんな助け合って幸せになれるかなんて、もっと分からない。そろそろ人間は絶滅するんじゃないかとも思う。既に人間社会は協力することを忘れてしまったし、地球という星を破滅的に傷つけてしまったのだから、もうおとなしく消えればいいとも思う。
誰にも分からないことを勝手に、良くなるはずだと決めつけて、希望に縋る方が苦しい。自分は努力すればいつか幸せになれるはず、なんて思う方が苦しい。分からないのだという現実を受け入れる方が、自然に沿っている気がする。実際に苦しめられたままで消されていく人も、たくさんいるのだろう。癒えなかった傷と。悲しいけど、人は時にそれくらい愚かな過ちを犯す。

以上が、私が機能不全家庭で育って、複雑性PTSDと共に生き、そのことに気づいた経験です。

コメント1
原稿をありがとうございます。
言葉を厳選し、ご自身の生きてきた(生かされてきたと言った方がいいでしょうか)道のりを社会的な課題を交えて表現した文章に私が今まで感じたことのないある種のパワーを感じました。それは、「生きたい」という意思とも異なり、「希死念慮」とも違うように思います。自分が何者かでありたいというパワーなのかもしれません。

一緒に考えたいのは人間が協力することを忘れてしまったという指摘についてです。私は今も人々の中には共同体意識はあり、それは発揮する機会が少なくなってしまっただけだと思っています。障がいが一人ひとりの中に原因があるのではなく、社会との関係で生じるものとして定義できるのなら、協力、協働も一人ひとりの中に存在する個人的な問題ではなく、社会との関係や環境によって定義されるのではないかと思います。なぜ、人は協力することを忘れてしまったのか?また、人が共同体意識を取り戻すために何ができるのか、考えたいし、できることはやっていきたいと思っていますが、それを阻む巨大な力がたくさんあることも確かです。

私自身も諦めたくないけれど、人間が持てる力を発揮できる社会にするための努力があまりにも非力で諦めそうになることばかりです。でも、やっぱり諦めたくないから社会活動を続けています。社会活動が人々を幸せにできる力を持つための方法は何か、一緒に考えたいですし、微力でも問題意識を持つ仲間を増やしたいと思っています。

コメント2
あなたが何を考えて生きてきたのかが伝わってきて、(本当におこがましいですが)経験の断片を自分のことのように感じました。読んでいると、説明が難しい感覚になります。

あなたはおそらく、相手自身が意識しているよりも相手の意図や気持ちがわかるのだろうなと思います。そんなあなたにとって、ただでさえ耐えがたいような家族の歪みや社会構造は非常に苦痛であったであろうと容易に想像できます。それでいて、他の人よりも視野が広く物事の背景まで見えてしまうあなたには、自分の苦しみの責任を自分や他人など「だれか」に負わせるのは難しかったのではないでしょうか。そのため苦しかった経験は「社会」の責任であるという視点は自然とあなたの中に入ったのではないかと考えました。

関わった人間からの言葉や欲望に傷つけられて、それでもなお社会変革や人間の可能性を信じ続けられる(というより信じざるを得なかった?)のはどうしてなのか、不思議に感じました。私もそれらを信じてはいるのですが、社会の責任ととらえる視点に気づき、1人でそれを信じ続けるのはとても大変だったのではないかと思います。あなたが信じ続けられた理由がわかれば、自分のためにもなりそうなので聞いてみたいです。

→そこの文脈での「信じる」は、絶対的にそうだと確信しているのではなくて、「人間や社会の可能性を諦めるのは簡単だけれど、諦めないで信じることを選んでいるだけ」と言った方が近いです。
なぜ、そう信じ続けた(信じないといけなかった)のかというと、そうしなければ「存在を消される」ことを許すことになってしまうからです。「人間を殺す社会」をそのままにしていたら、私自身が死んでしまうだけでなく、同じ立場にあるたくさんの人たち(それは何の罪もない子どもたちだと思う)が殺されていくからです。私にはそのことが人生において最も許せない、耐えられないことだったからです。自分もみんなもただ生きることができる社会にしたかったです。そうすれば自分も生きられると思いました。人が生まれたときから大人になっていくまで、苦しみ尽くして殺されるだけの人生がたくさんある世界なんて…そんな現実を放っておけないと感じていました。でも私にできることはとても少ないです。一人では何もできません。だから、社会や人間の可能性を信じることを諦めたくないという思いを共有できるような仲間を作って、どうしたら生きられるようになるのか一緒に考えられたらいいのにと思います。