もしも、願いが叶うなら

大阪・21歳・男性


私はいつから感情を出さなくなったのか。

中学生の時だろうか、高校生の時だろうか、そんなことを考えながらそれは今現在私の中で渦巻いている。

「考えすぎじゃないの?」、「そんなこと考えても無駄だよ」と言われても簡単に止まるわけもなく、むしろ私を蝕んでいった。そう考えていると何故私は生きているのか。私は幸せになるに値しない人間ではないのかと考えるようになった。

そもそも私自身周りとは違った考えを持った人間らしく、小中高少し周りから浮いていた。

小学生の時には周りからはぶられ、中学生の時にはやんちゃなクラスメイトの憂さ晴らしで嫌がらせを受けた。相手からしたら冗談かもしれないが当時の私には恐怖でしかなく、それに加え、運動も勉強もできなくて、徐々にフラストレーションがたまっていき、教師には屁理屈をごねて歯向かい、クラスメイトに暴言を吐いて傷つけてしまうこともあった。

それは例え、「思春期」という「多感な時期」だったと言われてもやんちゃなクラスメイトとやっていることと一緒であり、到底許されることではないことは重々理解しているし、今傷つけたクラスメイトに暴言を吐かれて殴られたりしても受け入れて許されないかも謝らなければならないと思っているし償っていくべきだと思っている。

また、中学生最後の年には徐々に人を信用できなくなり、自己嫌悪に陥り、人と関わるのが嫌になっていった。学校に行ってもクラスメイトとは話さず、授業中は窓や地面、時計を見て時間を潰し、家に帰ったら寝床で寝る生活を送っていた。

そんな中学時代を変えるべく高校生の時は人と積極的に関わり、友人とも遊ぶようにもなったが中学時代のことが頭の中に残っているためなのか、遊んでいても楽しいとは感じず、ずっと心の中に虚無が広がっていった。

大学生になった今も人と話していても遊んでいても心の虚無は私を蝕んでいく。感情を表に出せない人間に何の価値があるのだろうか。

ただ時間を浪費する生産性のない自分を自分で勝手にレッテルを張り、自分は無価値な人間だと感じるようになっていった。自己嫌悪と自己矛盾、時よりマグマのように沸き立つ生物としての欲望と欲求、それに対する嫌悪と吐き気。常に人に見られている視線と頭の中に響き渡る罵声と笑い声。

そして日々眠るときに感じるぼんやりとして感じる将来への不安。そんな毎日を私は日々過ごしている。

こんなことは自分より苦しんでいる人々にとっては自分勝手でぜいたくな悩みを持ったわがままな人間だと思うし、自分もそう思っている。そしてそう考えてはならないとも知っているがそれでも考えてしまう自分がいる。

そんな私は最近、ふとある考えが思い浮かぶ。「もし、私が生まれなかったらどうなのか」である。

もし、私が生まれなかったら家族に迷惑もかけないし、傷つけてしまった人もいなかったはずだと。しかし、実際にはそんな世界はないし、仮に存在していたとしても私はその世界を知ることはできない。私はこの罪と罰を抱え込んで生きるしかないと思い込んでいる。

そんな悩みすらも全て楽になってしまいたいと思っていても結局何もできないまま一日を終える。子供の頃願いが叶うならお金持ちと答えていたが今もしも、願いが叶うなら私は自分の存在を消してほしいです。

感想1

経験談を投稿していただきありがとうございます。
ここには書ききれないほど投稿者さんが傷ついた思いをされたのだろうと感じました。

中学生の時に、同級生を傷つけてしまった申し訳なさ、傷つけられた経験をしたのに自分も人を傷つけてしまったということが自分自身を責めてしまうことに繋がっているのかなと思いました。その時に投稿者さんの気持ちを聴いてくれたり、一緒に考えてくれる身近な人が周りにいたのかが気になりました。もしいなかったのだとしたら、投稿者さんの気持ちをどこにも誰にも吐き出せずに溜め続けたものが溢れたのではないかと思うし、本当の自分の気持ちを分かってもらえなかったという気持ちになることもあるのかなあと思いました(あくまで私の想像ですので、間違っていたらすみません)。

考えすぎではないのかと言うのは、周囲の人にしたら励ましなのかもしれません。ただ、言われる側の気持ちとしては、そうはいっても考えるのをやめられるわけではないし、むしろ考えすぎてしまう自分の存在を否定されているような感覚があったのかなあと想像しています。自分の考えたことが否定されている気がして、色々感じていることはあるけれども出さないように押し込められているのではないでしょうか。自分の感情も出せないし、出してもわかってもらえないという気持ちがあったとしたら虚無感に繋がっていくのではないかと思いました。

「自分の存在を消してほしい」と願うのは、人に傷つけられたこと、傷つけてしまったことをなかったことにしたいという思いがあるのかなというように受け取りました。また、「生産性のない自分」とも表現をされているので、自分はいてもいなくても変わらないと感じられているのかなと考えました。ですが、投稿者さんが書いてくれたこの経験談を他の誰かが読むことで、その人にとってのヒントが見つかることもあるかもしれません。この経験談が結果として誰かの手助けになることがあるのではないかと私は思いました。

「感情を表に出せない人間に何の価値があるのか」と書いてくれますが、自分の気持ちを発信したい、表に出したいという思いがどこかにあって、今回経験談を書いていただいたのかなというように私は感じたので、死にトリやそれ以外の場所で投稿者さんが感じていることを伝えてもらえたらと思っています。

感想2

経験談を読ませてもらいました。
まず、感情を出せないというお話がありました。これは、感情が何かによって押さえつけられているような感じで、出てこなくなってしまったのかなと想像していました。だから、虚無感が募っていくのも納得していました。

また、周りと違うことを受け入れられず、違いを理由に嫌がらせを受けた経験から、人との違いに敏感になったのではないかな、と考えました。

さらに、楽しもうとするほど、感情が出てこないこととの間にギャップ(楽しみたいのに、楽しいと感じられない)が生まれて、自分が怖く、不安になるのかなと思いました。

「私はその世界を知ることはできない」という記述から、「世界を知りたい」という欲求が背景にあるように感じていました。
でも、人は皆、自分の限られた視野で、限られた認知能力と情報源でしか、世界を知ることができないので、それぞれ偏った考え方や感じ方をしているのだろうと思います。
あなたはその偏りにも敏感で、偏ることを恐れているような印象を持ちました。そのことは、自分がどこまで世界を知れるかには限界があることを受け入れたうえで、世界と繋がって暮らすためには、大切な感性なのではないかな、と思いました。

自分の存在を消してほしいという思いには、「消えてしまいたい」という願望と、「生きる価値がないのだから、生きているべきではないのではないか」という規範意識の両方が含まれているように思いました。その思いが複雑に結びついて、一つの文章表現となっているような気がして、そこに人らしさ、愛おしさも感じられました。
自分は無価値であるという考え方も、偏っている可能性があるのだと考えるなら、何も信じられず、苦しくなるかもしれないなぁと想像しました。

「生物としての欲望と欲求」というフレーズも印象に残っています。
周囲からの刺激のインプットと、自分の欲望と欲求のアウトプットとの循環が、どこかスムーズにいっていない様子をイメージしました。インプットが必要以上に大きく感じられたり、それに対処しきれずショートしたり…?といった感じで、うまくアウトプットまでたどり着いていないのかなと。

そうすると、生活しているだけで、いろんな負担が大きくて疲れそうです。でも、そのやり方が無価値なのか?というと、そんなふうにも思えませんでした。ただ、世界にどのように対処しているか、という方法が、他の誰かとは少し違っているということなのかなと。そして、それぞれ違っていることに価値がある、という考え方もできるのではないかと、私は思いました。

経験談から推測した部分が多いので、何か違っていたら教えてもらえたらと思います。
また機会があれば、この世界について、人と世界との繋がり方について、一緒にお話してみたいと思いました。

お返事

感想を読んで思ったのは、私は若干、強迫観念が強く、それ故に○○しなければならない、○○でなければと思って、偏るのかもしれません。

しかし、そういった考え方は自分を縛り、蝕んでいくので解放されたいと願っているのと良くないと分かっているけどどうすることもできない現実との間に悩んでいるのではないかと思いました。

私自身が矛盾した考えを内包しているからこその苦しみ・悩むのであり、いっそのこと偏ってしまえば楽のではないかとも思います。

しかし、人はそう単純ではありません。人といるのが好きな人もいれば一人でいるのが好きな人もいるようにそう簡単には割り切れない問題です。

私自身、自分は生きるべき人間ではなく、死すべき人間だと思っています。人を傷つけてしまった過去や傷ついたこと、自分自身という人間の存在がいなければいいと思っています。

しかし、心の奥底では自分を認めてほしい。もっと自分の感情を表現したいと思っているのかもしれません。

まだ、分かりませんがいずれこの悩みに自分なりの答え・表現を見つけれれば少しは楽になるのかなと思いました。