好きをもつ恐怖

【奈良県・23歳・男】


子どもの頃から僕は、早いうちのどこかで死んでいるんだろうと思っていた。

ゲイ、いわゆる男を好きになる男として僕は生まれた。物心つき始めた頃、幼い僕は女も男も男を好きになるものだと考えていた。反面、結婚は常に男女ということも知ってはいたが、それはなんとなくそういうものだと、特に疑いは持っていなかった。

けれど、僕はゲイが普通でないこともしっかり知っていたように思う。最も昔の記憶では、幼稚園に入ってすぐ、ちょっと気になる男の子の隣に座りたかった僕が、ためらってなかなか座りにいけなかったことを覚えている。それは僕が単にシャイだったせいとも言えるが、それとは別の、うっすらとした気持ち悪さを感じていた。

自分の好きなことやものを公表することに明らかな羞恥心と恐怖を覚え、それを隠すようになったのは小学生の頃からだ。ある日、女子から勧められた漫画を読んでいるとちょっと笑い者にされた。些細な出来事だけれど、そんな些細なことが今でも記憶に残っているのだから、それは僕にとってものすごく大きな出来事だったのだろう。この頃からだろうか。僕が、いつか死んでいるだろうと思い始めたのは。なぜかは分からない。さっきの出来事も、いきなり死を意識させるほどではないように思う。いろいろな要因が複合的に絡まった結果なんだろう。例えば、僕は出されるご飯に毒が入っていないかをいつも疑っていた。

当時の僕には、今もそうだけれど、安らぎを感じて良い場所がなかったんだと思う。中でも外でも。自分の気持ちを正直に、何でもいいからと、どこかへぶつけることができなかった。そういう子だった。この先もずっとこうなんだろうか。幼い僕は、言葉には表さなくてもそう感じたのかもしれない。自分らしく生きることができずに送る人生は、一体何なのだろう。そう悟って僕は死ぬことを予感したのだろう。

僕にとって、一番生きづらかったのは中学時代だった。この時期に、ほとんどゲイとしての自覚を持ち始めた。一方で、周りの男子も徐々に性欲に目覚め、男女の踏み入った話に花を咲かせられるようになる。きっと、そういった恥じらいを共有することが少年の成長には不可欠なのだろう。けれど、それが僕にとっては毒となった。

ヘテロ、いわゆる異性愛のエロイズムに基づく中学男子の興味は、時として反対の方向に及ぶことがある。今、皆はもうホモ、同性愛者の存在を知っている。そして、こんな切り口で話が進んだりする。男と男で、すなわち凸と凸でどうやってセックスをするんだ。当時は僕も知らなかった。だからこそ、彼らが面白おかしくそれを語らい合うのは純粋な好奇心に過ぎなかったことを、今となっては理解できる。しかし、当時の僕は、そうした話題が場に出ることを何より恐れていた。その度に僕は、命の危険が脅かされているのに相違ない恐怖と敵意なるものを感じていた。そして、疑心暗鬼に陥り、誰もが僕を欺くために罠を仕掛けているのではないかと思うようになっていった。

同性愛という概念を話題にするのは、何も周りの中学男子だけではなかった。親や教師、テレビ画面、塾の講師、関わる人々は多かれ少なかれそのことを一度は口にする。この頃から、周りに対する憎しみを抱えるようになった。といっても、それが憎しみであることに気が付いたのは高校が終わるぐらいの頃だったが。

そして、アイデンティティという概念について死ぬほど悩み続けたのだ。僕は誰だという問いに、僕はゲイだという答えを返せるようになるまで、とても長い時間を費やした。異質で異常で異物であるという感覚のいかに受け入れ難く辛いことだろう。ある日、保険の教科書に、思春期に人は異性を好きになると書かれてあった。僕は悲しかった。

高校生になると、僕は絶望していた。小学校や中学とは違って、周りは分別がつき始めているから、例えば揶揄されたりすることの心配はなくなった。けれど、僕は人生に疲れ果ててしまっていた。もう、その頃になると、僕は何が好きで何が嫌いなのか、自分で分からないようになっていた。隠しすぎた弊害だ。でも、それで良いと思っていた。無になることが、その時の僕の生存策だった。そして、僕は時間を短縮するという技を身につけた。例えば、人は寝ている間の時間を認知できない。すると、1日は24時間あるといっても、人が正味で生きているのはせいぜい10数時間なのだ。これと同じことで、僕はこの高校生活をカットしてしまえばいいのだと思った。ただ何も感じずに、次の日から次の日へと、無味無臭の時間を過ごす。そうすれば前の日のことはほとんど記憶に残らないのだから、僕は季節の節々で時間を短縮できていることを実感できた。そして、高校が終わるまで、僕は短縮しろ短縮しろと心の中で唱え続けた。

大学生になると、少しだけ人生を俯瞰で眺めるようになっていた。そして、こう思い始めた。ゲイであることに囚われすぎではないだろうか。僕は、何をしている時でも、自分がゲイであることについて考えていることをやめられなかった。そのせいで、多くのものを見失い、そして本当に失ってきたのかもしれない。誰かに打ち明けることさえできれば、それで何か変わるに違いない。自分にかかっている抑制も取っ払われるのに。こう考えてしまう自分自身を変えなければいけないのではないか。

そして、僕は誰、僕はゲイ、という問答を超えたものがあるはずだと思うようになった。僕は僕だ。これが真実の答えであることを確信し始めた。けれど、これは答えであるようで全く答えではなかったことにすぐ気がついた。僕は僕、じゃあ、僕とは何?そこで壁にぶち当たった。僕は自分が何が好きで何が嫌いかすら分かっていないのだ。これはなぜ?僕はそう思った。

どんな人にも好きな歌手や好きな俳優、好きな本、好きなスポーツがある。僕にそれはなかったから、人が好きなものについて語るのを聞くと、たまらない劣等感に襲われた。怒りまで込み上げた。何故そうも堂々とひけらかせるんだと。そこで僕は、そもそも、人が好きなものを持つのはなぜなのか考えた。

生きることの本質は、自己を絶えず構築していくことだと僕は思う。そして、好きなものを獲得するのは、自己を構築する行為だと思った。だから、好きなものを持っている人たちは、”強く生きようとしている”。そう思った時、僕の胸の中がまた激しく燃えるのを感じた。ジェラシーだ。僕はどうだ。僕は、自分の好きなものを知られたくない。だから、好きなものを自分からも見えない所へ隠した。それは、自己を構築するのを拒否していることに他ならない。つまり、僕がまるっきり生きようとしていないことを意味する。

そうか。僕が未来を描けず、早いうちのどこかで死んでいるのだろうと幼い時から思っていたその気持ちの正体は、それだったんだ。好きなものを持てないことが、僕の問題の核だったのだ。僕はまるっきり生きようとしていないのだ。

そして、僕の中にはジェラシーが燃えたぎっているのだ。僕以外の彼らは常に現実と自分の人生の先を見つめているのに、その陰で僕は空想と死ばかりを見つめながら彼らのその様を羨んでいる。彼らは大人で、僕は幼稚なのだろう。けれど、彼らは自分に生きる力が与えられていることに何の自覚も疑問も持っていないだろう。そう思うと余計に悔しくて、妬ましくて、たまらなく胸をかきむしりたくなった。

僕はそこまで考えて初めて、自分の真の正体を知った気がした。

今になって、少し心境の変化が起こっている。不思議なことに、好きなものがぽつぽつ生まれてきた。新しい音楽、新しい本、新しい趣味。それだけでなく、昔好きだったものも次々に思い出されているように思う。これはきっと、ほんの一部だけだけど、自分の好きなものを言える人ができたからだ。正直になれる場所は、自分の中にではなく、他人の中にあるのだと思った。そういう人が一人でもいてくれれば、それだけで僕は、一人でだって生きていく力を得られるのだろう。

僕が今生きたいのならば、自己を構築せねばならない。自分に嘘をつかず、本心を隠そうとせず、好きなものを大切にする勇気。そして、時としていかに近い縁でも枷と感じるならば切り捨てる覚悟を持って、自由になるのだ。みんなのように自由に。けれど、僕はまだまだ弱い。今でもやっぱり、その選択肢の中に死を含めてしまう。それがとても苦しい。

感想1

経験談の投稿をありがとうございます。

これまで、何に悩んで、どのように生き抜いてきたかがよく整理されていて、それだけ人生に向き合ってきたということなのだろうと思いながら読んでいました。

好きなものが本当に全くないというよりも、好きだという感情を意識しないように、表現しないようにしているのだろうと理解しました。それは生きるための術だったのだなぁと。

好きなものを好きだと意識したり、表現したりすると、周りに揶揄されたり、周りとの違いを感じて悩まされてしまうので、はじめから諦めるようにすることで、生存策としていたのだろうと考えました。

あらゆるものに対する感情を抑えて過ごしていれば、こころが生きようとすることを諦めようとするようになっても不思議ではないと思います。一方、このような経験がなかったら、ここまで生きることや感情を持つことについて、思考を深められることもなかったのではないかと思いました。生と死、というテーマに必然的に向き合わされてきたことで、死を選択肢からなくすことは難しいのだろうなと思います。

保健の教科書についてのお話がありましたが、教科書に書かれている情報が偏っていることは、たくさんの人たちの偏見を助長してしまいますよね…。性的思考や発達過程について、一律にこうだと決めつけることは間違いですし、教科書の記述では殊更あってはならないと思います。

「ゲイであることに囚われすぎではないだろうか」とありましたが、それは世間がヘテロセクシャルであることに囚われすぎていることの裏返しではないかと思いました。今回お話してもらったように、誰かに伝えることで、この問題をあなたが一人で抱え込まず、社会に共有(還元)し、一緒に考えていくためのきっかけになるかもしれません。

また、生存策としての「時間の短縮」は、ビデオを早送り・スキップ再生するように過ごしているところをイメージしました。時間の短縮術を実行するためには、「好きなものを自分からも見えない所へ隠した」のも、やむを得なかったのではないでしょうか。何も感じないと、記憶がほとんど残らない。そう考えると、人間の記憶は、感情と強く結びついているのだろうと考えました。

自分らしくあることができないで育つと、自分が何者なのか(アイデンティティ)を掴むことは至難の業であるように、私は感じています。

自分の「これが好き」という気持ちは、他の人たちに「あなたはこれが好きなんですね」と受け止めてもらったり、「よくこれを使っているけど、お気に入りなんですか?」と指摘されたりすることで、「発見」されるものなのかなと考えました。

繰り返すようですが、何かを好きでいることは、そうしていても心身の安全が脅かされない環境でなければできないと考えます。そして、自分の好きなものを「発見」してくれる人がいなければ、「ない」ことになってしまいそうです。だから、「好きなものがある」ことは、実は当たり前ではないと思います。

今、あなたは好きなものを好きだと自覚し、表現してもいい場所が見つかって、自分が持っていた(けど「ない」ことにされていた)感情に気づき始めているのではないでしょうか。

感想2

経験談を投稿していただきありがとうございます。自分の気持ちを俯瞰的に捉えられ、それを言語化するのが得意な方なのかなと思いました。それに至るまで、投稿者さんが物心がついたころから現在に至るまで自問自答を繰り返しながら、「自分とは何者なのか」を求めてこられたことが伝わりました。好きなものをからかわれた、(間接的にでも)否定された等の経験から好きなものや自分自身が分からなくなっただけでなく、自分の存在までも否定された気持ちになられたのではと読んでいて思いました。

経験談の中の「短縮する」という言葉が私は気になりました。季節が変わり短縮できていることを実感することは、投稿者さんにとって安心できる瞬間だったのかなと思いました。その反面、季節の変わり目を実感するまでは、「短縮しろ」と自分に言い聞かせ、追われていたのではないだろうかとも思いました。自然に何も感じなくなったというより、感じないようにと考えられていたのかなあと想像しました。何かを感じることは労力がいる反面、何も感じないようにすることも相当なエネルギーを使うのではないかと考えました。そこから投稿者さんは好きなものを持てていなかったのではなく、好きなものに蓋をして過ごされてきたのではないかと考えていました。ずっと蓋をしていたのであれば、それを開ける(好きなことを思い出す、発信する)のもまた怖いという気持ちがあったのではないかと想像しています。

そこから好きなものを思い出せるようになったのは、自分の好きなものを言える人がいたからだとのことでした。その人に好きなものを言えたのは、投稿者さん自身が好きなものを他の方に発信されたからなのかなと思います。それまでは好きなものについてなかなか言えなかったとのことだったので、話してみようと思った気持ちや話せる人と出会って投稿者さんの心境がどのように変わっていったのかを聞いてみたいと思いました。

お返事

とても丁寧な感想を書いていただきありがとうございます。僕自身、感じていることを整理する良い機会となりました。

人から指摘されることによって自分の「好き」に気づくという考え方は、確かにそうなのかもしれないと思いました。思い返せば、最近「お前は〇〇が好きでしょ」と言われることが(偶々でしょうが)増えた気がします。そして、その度にとても嬉しい気持ちになっていたことに気が付きました。今、好きなものを書き溜めていく習慣ができたのも、そのおかげなのかもしれないです。

けれど、劇的に何かが大きく変わったわけではありません。ただ、前より少し、人といて楽しく思うことが増えただけで、好きなものを完全に発信できるかというとまだまだそんなことはありません。蓋はまだまだ固く閉じられていると思います。心を許せるような人はまだ僕にはいません。

ただ、その少しの進歩が僕にとっては嬉しかったのだと思います。好きなものを見つけると、なんとなく解放されていく気分がするのです。あとは、その好きを育てる力が僕にあるかどうかです。現時点で僕はまだまだ疲弊していて、死にたい思いでいっぱいです。それでも、今回のこの機会を無駄にしたくありません。頂いたご感想を何度もお読みし、そして、もう一度自分の心の中を見つめ直していると、もう1cmだけは頑張ってみれる気がしてきました。

書いてくださった内容は全て大切に心にしまっておきます。最後になりますが、改めまして、厚く御礼を申し上げます。