岐阜県/10代/女
岐阜県の13歳、女です。
自分に自信が持てません。自分にある才能を驕らないようにはしているけど、どうしても自分が特別だとか誇ってしまうんです。普通のことかもしれませんが、もう二度と人前では何もやりたくない、自分は駄目な存在なんだって自身を追い込んでしまうんです。心無い一言で。
最近、チャットに自分で描いた絵を載せているんですが、称賛してくれる人には感謝しますが、あるコメントを見つけました。
「ここにあるイラスト全部下手じゃん」
確かに他人とは劣っているとは把握済みですが、全てを否定されるのは心外でした。冗談で言ったかもしれない、ほんの軽い場を盛り上げるジョークかもしれない。私には一切、そう思えないんです。
pixivでも投稿していますが、幸い被害は受けていませんでした。
小学校でも、同じような出来事がありました。その子は別の中学へ行ったんですが、6年生で同じクラスになったとき、冗談のつもりなのか私のことをからかっているような感じでした。今の私があるのは、ほとんどが小学校からの出来事をそのまま中学でも反映されるんじゃないかと恐れているのではないかと思っています。
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学校に行きたくありません。
今月も夏休みが終わる日に自殺しようと思っていました。
だけど、なんで死ぬんだろう、なんで死ななければいけないんだろう、そうやって自問自答しているうちに夜が明けて通学路を歩いていました。
自殺をしよう、なんてはっきり考えたのは2年ぶりで、夏休みが終わるまでにずっと自殺方法のこととか遺書の内容とかをインターネットを駆使して調べていました。
死ぬのは怖い。でも死にたい。
そのときに、私はただ死だけを願っている、動くだけの屍体だと実感しました。
どうしようもない欠陥品で、生きる意味なんて知らない失敗作と自分を捉えました。
時々、「私が死んだら、家族は、友達は、クラスメートは、どんな反応をするんだろ」って考えて、所詮私の存在はこんなものかと身の程を知る機会が多々あります。
今は一応登校していますが、休むと家にいる母の視線が冷たく感じてしまって、そもそも休もうと思っても主治医の先生が判断したのか欠席させてはくれない日々です。
来年は受験生なので、嫌でも学校に行かなければいけないんですが…。
◆◆◆
小6後半に初めての自殺が両親に知られてから、神経小児科に通っています。自分なりにネットで調べてみました。自分の症状と照らし合わせると、どうやら統合失調症という病気らしいです。確認はしていませんが、訊く勇気が無いので放置したままです。
ここ最近、誰か陰で私のことを悪く言っているように思ってしまったり、他人と接しにくくなって上手く喋れなかったりするんです。やっぱり駄目な自分だなって実感しています。
明日のことを少しでも考えてしまうと、頭痛が襲ってくるのでなるべく考えないようにしているんですが、どうしても先のことをマイナス思考で巡らせてしまってしまいます。
「今この瞬間に地震が起きて家の下敷きになれば」
「隣の家でガス爆発があって巻き添えになったら」
「車に轢かれれば」
「強盗が押し入って私を殺したら」
「誰かが私を狙撃したら」
そんなありもしないことを考えて、「明日死ねば学校に行かなくてもいいんだ」って思うんです。
今後、どうやって生きていけばいいのかは考えていません。
感想1
経験談を投稿いただき、ありがとうございます。文章を読んでいて、ほんとうは自分を肯定したいのに、それには少し罪悪感があるのかな、と思いました。自分が特別だと誇るのはなにも不思議ではなく、むしろそう思えることは素敵なのではないかと個人的に思います。でも、もしかしたらこれまで「みんな特別で素晴らしい」という価値観よりも、「自分を出してはいけない」「あなたは劣っている」というメッセージを周りから与えられていたのでは?とも考えてしまいました。
また、描いた絵を否定されると、自分自身ごと否定されたような感情を抱いてしまうところがあるのかな、と感じました。白か黒かはっきりしていて、何か一つ否定されるとすべてダメなように感じてしまうのだろうと推測します。そういう考え方になるのは、自分は完璧でなければならない、という真面目さが根本にあるのかなとも思いました。
そして、受験生になるから嫌でも学校に行かなければならない、とありました。全日制で毎日通学のところだけでなく、通信制でそこまで通学せずに卒業することのできるものもあります。だから、学校に通うことがつらいのなら、いったん逃げてみるのも一つの手かなと考えたりもします。少し気が楽になりそうならそういったものも調べてみてもいいかなと私は思いました。
感想2
はじめに思ったことは、あなたのイラストへの無責任なコメントは、気にしなくていいということです。
私たちは、生きているなかでいろいろなものを作っています。家で食べる料理や、工場で作られた製品も作られたものですし、あなたのイラストもあなたが描くことで生まれたものです。
また、私たちは作ると同時に、作られたものを使ったり、食べたり、なにか感じたりすることで消費しています。作ることと消費することは、生きる上でどちらも大事なことだと思います。
でも、私たちはよく、消費しているうちに作った人のことを忘れてしまっているような気がしています。
インターネットには、いろいろな作品と感想がありますが(この経験談と感想の関係も同じですね)、それはほんとうだったら、気持ちいい、真剣な対話やコミュニケーションとして成立していなければいけないと私は思います。
でも、作るときは真剣に作っていたはずの人も、消費する側になると、途端にてきとうになったり、暴力的になったり、無責任になったりしてしまうことがあるような気がします。もしかすると、その人に余裕がないのかもしれないですが……。
長くなってしまいましたが、あなたが真剣に描いたイラストについて、真剣でないコメントがあったとしたのなら、それはまったく気にする必要のないことです。でも、気にする必要はないと思うようなことでも、気にしてしまって苦しくなることはあると思います。その背景には、もしかすると、あなたの書かれていた「特別」という気持ちと「だめだ」と思う気持ちが関係しているのかもしれないと思いました。
あなたの文章を読んでいて、「特別」と「だめ」は反対のようで、実はなんだか似ているのかもしれないと思いました。どちらもほかの人との比較のなかで語られている言葉だからです。
ほかの人と比べて自分のことを考えると、見えている人が変わったり、自分の状況が変わったりするたびに、自分への評価が変わることになってしまって、ジェットコースターに乗せられて揺さぶられるような苦しさがありそうです。でも、ほんとうに評価は必要でしょうか。
私は、自分に対する評価はあまり必要ないのではないかと思っています。私たちはただいるだけで世界から受け入れられているものですし、受け入れられることには理由すら必要ないと私は考えています。しいて言うのであれば、その条件は「生きていること」くらいではないでしょうか(それすら、ないのかもしれないとも思いますが)。
たとえあなたがだれだとしても、どんな人だとしても、私はあなたがいてくれることがうれしいです。
あなたが経験談という形で表現をしてくださったこと、それを私はじっくりと読み、考えながら文章を書く時間を持てたことがうれしいです。経験談を送ってくださってありがとうございます。あなたにとってうれしいことはどんなことでしょうか。あなたが落ち着いていられるのはどんなときでしょうか。
もし、そのひとつにイラストを描くことがあるのであれば、このサイトのなかの「のびアート」にぜひ投稿してください。お待ちしています。
お返事
読んだ感想を拝見しましたが、確かに自身を驕るとか常に上に立つ者のように振舞わず、他人から称賛されても否定的でした。
普段は一人ぼっちで過ごしていて、時には相手には悪意が無かったのかもしれませんがいじられる、というか小馬鹿にされるときもありました。そのとき発せられた言葉を真に受けてしまったのか、そこからクールダウンしていきました。
今でも、周囲から避けられるような視線を感じたり、陰で何か悪い評価を受けているんじゃないかと疑心暗鬼の状態です。ただ、今回の感想を読ませてもらってからは、少し見え方が変わったような気がします。
“気にしないこと”って難しいですけど、それだけで少しでも楽になったら簡単に思えてきました。